常識
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)飛礫《つぶて》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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     一

 富永郁子よ、私は今や、あらゆるものから解き放された自由な自分の魂を感ずるから、凡てを語ろう。語ることは、あなたに別れを告げることに外ならない。別れを告げる時になってほんとに凡てを語る――これは人間の淋しさである。
 あなたの生活について、行動について、私が最初に或る要求をもちだした日のことを、あなたは覚えているだろう。あの日の午後、私たちは鎌倉山のロッジの前で自動車を棄てた。ロッジは何かの普請中でしまっていたが、私たちはそれを遺憾とも思わないで、初秋の冷かに澄んだ光の中を、恋人どうしのように歩いていった。秋草の花、薄の穂、青い海、そして富士山がくっきりと空に浮出していた。晩になると、あの富士山の左手、箱根の山に、航空燈がきらめく……と、そんなことをあなたは話した。そうした言葉を私がなぜはっきり覚えているかというと、その頃丁度私は、航空燈の光のようなものを求める気持になっていたからである。
 私は一個のルンペンに過ぎなかった。会社の金を拐帯して上海へ飛び、非合法な商売で生活に困らないだけのものを得て、また東京にまい戻り、さてこれから如何なる生活を為すべきかと思い迷ってる、一介の不徳なルンペン坪井宏に過ぎなかった。だから、あなたと知りあって、不覊奔放な気分から、ああした間柄になったのも、別に大した意味はない。あなたにとって私は単に享楽の道具にすぎなかったし、私にとってもあなたは単に享楽の道具にすぎなかった。いつからそうなったか、その最初の日附さえ私たちは覚えていない。最初の日附を覚えていないとは、ちょっと心細い、と云って私が苦笑すると、あなたも苦笑した。だが朗かな苦笑だった。
 それが、鎌倉山のあの時からちがってきた。海を眺め、空を仰ぎ、富士山を見やり、路傍の秋草を見い見い、恋人どうしのように……全く恋人どうしのように、言葉少い漫歩の後、片瀬から大船へぬける道に出る三辻の、あの家で、夜までゆっくりくつろいだ時、単なる遊びは生活力を萎微させる以外の役には立たない、ということを私が説きだすと、あなたはふいに――意外にも――泣きだしてしまった。なぜあなたは泣いたのか。それはあなたの本心ではあったろう。だが、本心というものは、前後の見境もなくさらけだすべきものではない。私はあなたのその涙に誘惑された。
 硝子張りの明るい湯殿で、のんびりと湯に浸りながら、暮れかけてる空を眺めた。それから酒をのみながら、丘陵の間の、松や杉の木立の影の、小さな村落の藁屋根から立昇る煙を眺めた。丘陵の谷間に夕靄が立ちこめると、いつのまにか月が出ていた。そうしたことが、旅に似た気分を私達に与えたにもせよ、そして旅にある男女は恋愛の危険に最も曝されるにせよ、あなたの涙がなかったならば、私は恋愛の楼閣を築き初めはしなかったろう。「もう遊びはいやです。あたしをほんとに愛して下さいますの。」あなたは泣きながら云った。「私一人を守って下さるなら……。」と私は云った。おう、何という言葉遣いをしたものか。そういう云い方を何が私たちにさしたのだろう。もうそれは遊びではなかった。私たちは誓った。大船から横浜をすぎて品川を出るまで、自動車の中で、私たちは手を握りあっていた。
 その誓いを私たちは守った。そしてそれからは、公然と振舞った。ホールへ行ってもあなたは私とだけ踊った。銀座の人中をも二人で歩いた。友人たちが出入するカフェーへも私は平然とあなたを連れこんだ。あなたの応接室で煙草をふかしながら新聞を見てる私の姿も、いろいろな人の目についたろう。二人そろって自動車に乗り降りするところも、いろいろな人から見られたろう。だが構わない。私は信念を持っていた。私はあなたの心を信じ、また、自分があなたを愛してると信じ、そうした信念に生きてゆこうと覚悟していた。その信念が多少ともぐらつく度に、自分で自分の心に鞭打った。信念がゆらぐのは、生活の様式から来るのだと考えた。ダンス、カフェー、芝居、麻雀……最も平凡な最も有閑的な娯楽、それがいけないのだと考えた。それ故に、私はあのまじめな計画、農園の計画に、本気で身を入れ、あなたにも相談し初めたのだった。
 東京にまい戻ってから、私がいろいろな仕事を考え廻したこと、そして最後に農園経営に心を向けていったこと、その消息はあなたもよく知っていよう。私はロンドンやパリーの郊外に於ける菜園の現状を調べ、その集約的栽培法の理論と実際とを研究し、肥沃土の人工的製作
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