をだして買えるような男なら、最もいい。またかりに、あなたが金に困ってるとして、会社の重役などに身を売ったとしても、まだよろしい。そうした一時の享楽の取引は、さっぱりとして、後に滓を残すことは少い。だがああいう男を相手にしては、ねちねちした臭気が身体にこびりつく。あなたのつもりでは、小料理屋の小娘に対する代償として、勝ちほこった見せしめだったかも知れない。然し、かりに私とみよ子との間が、お酌と接客との間のようなものだったと仮定しても、あなたのその評価は全然あべこべだったろう。人間同士の関係として、あなたとあの男とのことよりも、私と小料理屋の娘とのことの方を、私は比較にならぬほど高く評価する。
 あの男とあなたのことは、前からいくらか私の気にならないでもなかった。だが私は無理にも信じてきた。けれども事実の方が力強い。あなたたちが綱島に行き、磯子に行き、伊豆へまで行ったことは、私の耳にも伝わってきた。あの男の内気そうな伏目がちな眼の中の、厚顔な誇りの色は、その曖昧な言葉以上に、いろいろなことを匂わせるのだった。それを、親切な岡部がまた裏付けてくれた。
「あの男はいろんな謎をふりまいてるようで、困ったものだ。今のうちに、なんとか、君の力で富永さんを引止めてくれるといいんだが……。」
 それは、まじめな常識的な言葉だった。その時私はまだ、「みます」のことを彼があなたに話していようとは知らなかった。私はうちのめされた気持で、あなたにぶつかっていった。がその時あなたはもう、煙草をもてあそびながら笑っていた。
 あなたの涙はどこへいってしまったのか。私の信念はどこへいってしまったのか。私たちは互に愛しあってると信じたいと、私はつとめてきた。農園のことまでも考えてきた。それが一度に崩壊してゆくのを、私はどうすることも出来なかった。真心というものは、或る大きさのものが初めから存在するのではない。小さなものから次第に大きく生長してゆくのだ。その生長の途中で、ふいに踏みつぶされてしまった。私は「みます」のことを弁解し、互の愛を説きたてたが、もう万事過去のことになっているのがはっきり感ぜられた。それくらいのこと、お互にどうだっていいじゃないの、というのがあなたの最後の結論だった。恐らくそれがあなたの本心だったろう。
 私の心の中には廃墟が出来た。そのなかにあなたの残骸がはっきり見えた。凹んだ眼と尖った鼻とのあたりに漂ってる異国人めいた風貌、断片的に無連絡的に理智めいた唇、反りのいい手指、毛皮の襟巻、特別あつらえの踵のひきしまった白足袋、または、大戸がしめきってある石の門、玄関まえの美しい砂利、日当りのいい応接室、亡夫の肖像、銀の煙草セット、置戸棚の中の大きな人形……。古人は、国亡びて山河在りと云った。私にとってはそれらのものが、あなたが亡びた後の山河であった。
 富永郁子よ、これまでは普通の愛慾のいきさつである。この後に、あの思いもよらぬ問題が起ってきた。私がそれに最初にふれたのは「みます」でだった。
 私一人でぼんやり酒をのんでいた時、お幾は酌をしてくれながら、もう身を固めたらどうかというような話をもちだした。前にもあった話なので、気にもとめないでいたが、彼女は案外真剣だった。私が茶化せば茶化すほど、ますます彼女は真顔になって、遂にあなたの名前までもちだし、二人は結婚するのが当然だと説くのである。彼女はあなたのことをよく知っていた。私とあなたとの仲もよく知っていた。
「これまでに、そんなことお考えにならなかったというのは、不思議ですねえ。何か差し障りでもあるんですか。」
 そうつきこまれてみると、私はへんに考えこんでしまった。結婚などということを、私は一度でも考えたことがあったか。断じてない。あなたの方でも恐らくそうだったろう。而も私は、二人の生活とか、農園経営とか、そんなことまで考えていた。結婚、そのことだけをどうして考えおとしたのか。而もそうした問題に、私たちの愛が絶望状態に陥ってからぶつかったのである。
 理屈ではなく、私はその時なぜか腹がたった。私には結婚ということも考えるのが当然だったろう。とそう考えることが、私の感情を苛立たせた。私とあなたとの結婚、それは本能的に私を反撥させるものを持っていた。何故か。私には分らない。恐らく、私たちの愛は結婚とは相背馳するような種類のものだったかも知れない。或は私のなかに結婚などというセンスが全然欠けていたのかも知れない。
「僕はあのひとと結婚するくらいなら、むしろみよちゃんと結婚しますよ。」と私はお幾に断言した。それから云い添えた。「でも安心なさいよ。みよちゃんとは結婚もしなければ、指一本ふれもしませんから。僕はみよちゃんの小父さんだからなあ。」
 もし蒼白い微笑というものがあるとすれば、私はそうした微
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