合っているらしいが、或る処で偶然聞いた重慶からの放送には、盛んに日本軍敗退のデマが飛ばされ損害其他詳しい説明までなされていた。このうち、日本語のもの二回あったが男声のは明かに内地人の声ではなかったけれど、女声のはその抑揚から音調に至るまで清澄な東京弁であった。ただその声に一種悲痛な胸迫るものあるのが感ぜられたのは、強制的に放送をさせられてるとの予想の下に、祖国につながる女性の血を想いやる憐愍の情からの故であったのであろうか否か。
 これら種々のことは容易に頭の中でも整理がつかない。Y君が紹介してくれた街の伊達者某君は、瀟洒な華奢な青年だが、恐らくは百数十名にのぼる支那人の子分たちを駆使しながら、華かなまた闇黒な巷を闊歩している。私は彼に或る世話になったが、次で彼の姿を求めようとすれば、もはや彼は何処かへ没し去って、捉えん術もなかった。私は一人街路を彷徨し、好きな老酒を飲みながら、額を押えて中国人の未知の友のことなどを考え耽るばかりであった。
 その老酒の、六十二年たったという秘蔵の珍品を、ふとしたことから私はさる料理店主から一瓶分入手して、ホテルの卓上に据えていたところへ、丁度三木清君
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