平静さが、八重子を夢の中のような気持にさせました。八重子も低い声で答えました。
「はあ、左様でございますが……。」
「もしも、宿にお困りのようでございましたら、お粗末なところではありますけれど、どうにかお休みにだけはなれますから、おいで下さいませんか。」
 八重子はなんとなしに立ち上って、お辞儀をしました。
「ほんとに困りぬいていたところでございます。帰りの汽車の切符が買えなかったものですから。」
「いつも、朝のうちに売りきれてしまうんでございますよ。」
 七分コートの女は、ゆっくりと駅を出てゆきました。八重子もそれについて行きました。
 町筋を通りぬけ、街道から細道へ折れこみました。いつのまに取り出されたのか懐中電灯の光りが、ちらちらと、足許をてらしました。相手の女の足袋の白さが、八重子には、眼にしみるように思われました。
「道がわるうございますよ。」
 ゆるい下り坂になって、女はふり返りましたが、にこりともしない無表情でした。小石交りの道なのに、その吾妻下駄の音も殆んどしませんでした。ただ、冷たい夜風に乗って漂う仄かな香水の香りだけが、八重子には、人間らしい頼りでした。
 生垣があ
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