となり、具体的内容の進歩が企図される時、文壇は行きづまるということを知らず、常に溌剌と進んでゆくであろう。
この小論の第一の論旨は、右のことで尽きる。然しこれは常識的な議論である。更に論旨を、もう一つ深い所へ進めてみよう。
私は前に、作品の具体的内容と暗示的内容とをかりに区別してみた。けれども実際に於ては、この両者は分つべからざる関係にある。両者一体をなして、作品の内容を形成している。ただ作品によって、両者結合の状態が異ってくる。所謂通俗的作品にあっては、殆んど具体的内容のみである。それが芸術的になればなるほど、暗示的内容が多くなる。更に、芸術的進化が大なれば大なるほど、暗示的内容が具体的内容として現われてくる。
真の芸術家にとっては、あらゆる事物人物もしくは現象は、それが依存しまたそれに内在している所の、より広きより深きより大なるものに対する、一の門戸である。芸術家はこの門戸を通じて、その奥底のものへまで探り入らんと努める。探り入った結果、それらのものは一の象徴として彼の眼に映ずる。偉大なる芸術家にとっては、一本の樹木の枯死は、「死」の象徴として現われる。一本の手は、「人間」
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