小説の内容論
豊島与志雄
小説の書かれたる内容が問題となってもいい位に、吾国の小説界は進んでいると思う。またそれを問題となさなければならない位に、小説界は或る壁に突き当っていると思う。
私は今、「書かれたる内容」と云った。このことについて、一言しておく必要がある。
如何なる材料を取扱おうと、それは作者の自由である。愚劣なる人物を描こうと、或は賢明なる人物を描こうと、それは作者の勝手である。然るに、作品の批評に当って、作中人物と作者とを混同するが如き誤謬が、往々にして見られる。作中人物が、その境涯に於て作者と非常に異る場合には、かかる誤謬は殆んどない。けれども、年齢に於て境遇に於て、両者の間の距りが少なければ少ないほど、かかる誤謬が益々多くなる。この誤謬に陥った批評家は、作中人物が利己主義者なるの故を以て、作家に利己主義の態度を非難する。作中人物が神経衰弱なるの故を以て、作家をも神経衰弱だとする。これは宛かも、某々の作品は事実かと作者に尋ねるが如きものである。もし一歩進んで、作中人物が狂人なるの故を以て、作者をも狂人なりとしたならば、その愚さに呆然たらざる者はあるまい。
無理
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