「何にも……。」
 その、仕事の上に就ての彼の口癖の返辞だけで、友は満足して、それ以上は徒労だと見た。
「じゃあ、また……。」
「失敬……。」
 赤みの多い顔に、蒼白い笑いを浮べて、杉本は、また、雑踏の中の孤独な漫歩を続けるのだった。光と色と音との錯雑した卑俗な渦巻きの中に、何を見るでもなく、何を聞くでもなく、背はさほど高くない肉附のいい身体を運んで、そして心には、周囲と全く別な、朗かな而も何かしら退屈なものを湛えて……。
 倦きてくると、帰りは、バスで……。
 金はなくとも、バスの切符はいつも用意があった。
 なぜなら、彼は市街電車が嫌いだった。市街電車は、どこから云っても、箱の感じだ――出入口の小さな踏段と、扉と窓と、堅牢そうな車体と、前後につっ立ってる制御機の鉄の円筒と……を以てして。それが人間を一杯つめこんで、二本のレールの上を、のろのろと走るのである。牢獄的交通機関……。だが、バスの方は、フォードの古型でも、まだよい。電車よりも、軽快で、自由で、危険な愛嬌があって、速力が早い。速力……汽車や高架地下の電車のことを思えばこれが最も肝要な点……。
 杉本はぼんやり考えながら、バスを待つのだった。
 そのバスに乗った或る時――
 昼間の散歩の帰りで、没しかねてる夕日に、慌しい街路がぱっと照らされていた。そういう時刻に、時折、妙にすいたバスが通ることがある――一寸息をついたという形で。不安なせかせかした夕方の、ひと時の隙間なのだ。
 杉本は一層茫漠たる様子で、五六人の乗客を、ぼんやり眺めていた。
「……頼みますよ。」
 声に気がついた時、バスは上野広小路から、切通下で一寸|停《とま》ったのが、もう動きだしていた。車外に、白シャツ半ズボンの、商店の若者らしいのが、ちらりと見えた。
 田舎の街道を走る、自動車や馬車や電車などには、殊に夕方など、私用の伝言や品物を車掌に頼むのが、よくある。頼む方でも頼まれる方でも、無償で、親しげに笑っている……。
 その、ちらと頭に沈んだ印象に、杉本はうっすらと微笑みかけたが、見ると、女車掌の習慣的な掌で背を支えられて、五六歳の女の子が、ひょいと、入口近くの席に坐った。
 おかっぱの、しなやかな髪。怜悧にませて見える、整った顔立。金と黄との、胴のつまった上衣。桃色の短いスカート白の靴下。リボンのついた可愛いい黒靴……。宙にういた足をきち
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