、日本に舞い戻ってきたら……。」
一種のなつかしみと力の自負とを以て、有吉祐太郎はそう思うのである。
二
杉本浩は粗末なアパートの一室に住んでいた。そして彼の生活は、飜訳と、雑文執筆と、読書と、漫歩と……。
浅草、銀座、新宿、その表通りや裏通りの雑踏の中に、彼の茫漠たる風貌がよく見られた。
いつも一人。古ぼけた帽子の下から、蓬髪の縮れが少し覗いている。肉の豊かな赤みの濃い頬に、そして円みのある※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]に、黒いこわ髯が、根強く、芽を出しかかっている。鼻が目立たず、口が小さく、強度の近眼鏡の下に、底深く眼が光っている……。その眼が、舗装道路の上に踊ってる衆人の足先を見る。そして彼は考えるのである。――人は次第に、ダンスや靴の影響よりも先んじて、踵より足先に力を入れて歩くようになった。これは生活が苛立ってる証拠だ。もし体重の百パーセントが足先にかかるようになれば、その時は、生活が狂うだろう。――そんなことを、全く没我的に考えながら彼自身は、踵と足先とに体重の五十パーセントずつを托して、のっそりと、漫歩するのだった。太いステッキを引きずって、和服の襟をはだけ加減に、そして時々朝日の煙を吐いて……。何かしら、茫漠としている。
高層建築、自動車の疾駆、燈火、器械音楽、騒音、色彩、蟻の巣をかき廻したような、人、人、人……。
「おい、杉本!」
通りすがりに、声のした方へ振向いて、足を止めて、相手の顔を見て取る――その眼には、人なつこそうな笑いが浮びその顔には、よくいろんな男に逢うものだなという表情が浮ぶのだった。
「どうだい。」
「うむ……。」
漠然と答える時には、もう眼の笑いも顔の表情も消えて、掴みどころのない顔付になっていた。
「どっかで、いいだろう、一寸……。」
その先の、酒かお茶かを察しながら、にやりと彼は笑った。
「駄目だ、今日は……。」
「急ぐのか。」
「いや。……ないんだ。」
「少しなら、持ってるよ。」
「少し……。」そして眼が揶揄的に光った。「だが、腹が空《す》いてるわけでもなし、喉が渇《かわ》いてるわけでもなし……。」
酒を飲んでは止度のない彼だった。また、飲むことにさほど興味を持たない彼、相手の議論を聞くことにも興味を持たない彼だった。
「いやに、はっきりしてるね。……この頃、何かしてるのか。」
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