傷痕の背景
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)彼奴《あいつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|停《とま》った
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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一
比較的大きな顔の輪郭、額のぶあつい肉附、眼瞼の薄いぎょろりとした眼玉、頑丈な鼻、重みのある下唇、そして、いつも櫛のはのよく通った髪、小さな口髭……云わば、剛直といった感じのするその容貌の中で、斜に分けられてる薄い頭髪が微笑み、短く刈りこまれてる口髭が社交的に動くのである。むろん、肩幅が広く、背が高い。前陸軍少佐…………。
陸軍少佐の職を弊履の如く捨てた、彼である。退職将校というよりも、落選代議士という感じの方が強い。
酒に酔うと、右の膝をまくって見せる癖がある、膝頭より上、大腿部の外方に、長さ七八センチの、可なり深そうな傷痕がある。
有吉の例の武勇談……そういった微笑で、親しい友人等は眼を見合った。
「天保銭」をねらわず、語学の勉強に力を入れ、外国語学校、大使館附武官、教育総監部、陸軍省……と、そういった方面を重にめぐってきて、実戦は勿論、実地兵科の方に縁の薄かった、そしてそれを一面得意とした有吉祐太郎のことだから、その「武勇談」といっても、ごくつまらないことだった。然し……。
「君たちだったら、美事に、横っ腹をぶすりとやられるところだ。それを……その時まで全く冗談だったが……冗談にせよ、はずみで……ぱっと払ったのが、腿にきた。彼奴《あいつ》案外真剣だったらしい……。」
そして、そのぎょろりとした眼付に、心をこめて、遠く、上海にいる杉本浩の面影を、追い求めるのだった。
「不徳漢で……卑怯者で……。」
だが、口で云うほど実は憎んではいなかった。何としても、憎悪の念なしに対抗意識が自然とその方へ向いてゆく、親しい対象だった――感情的にも、思想的にも。
彼の交友仲間――彼が中立候補としてたった代議士にも落選後、ひそかに結束の機運が醸成されかかってる少数の一団――の中には、日本ファシズムの気分が多く支配していた。その原動力の一つは、彼が大腿部の傷痕にあることは事実だった。
「彼奴が
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