分らない。今になってみると、間違ってたようだ。」
「あなたは、後悔してるの?」
「いや、そんなことじゃない。君は、あの男に対する嫉妬心だけで、あんな狂気じみたことをしてしまった。嫉妬心の腹癒せ……そんな、ちっぽけな、個人的な心がいけなかったんだ。もっと怒るんだ、もっと、本当に、腹の底から、怒るとよかったんだ。」
「怒ったからこそ、……分らないのよ、あなたには。」
「それが、実は本当に怒っていなかったのだ。僕にはそれが分る。今も云ったように、僕は今夜、有吉に対して、初めは冗談のつもりだった。ところが、その後では、本当に憎んだ。もし腕を押えられなかったら、即座に刺し[#「刺し」は底本では「剌し」]殺していたろう。……向うはそうじゃなかった。初めはわりに真剣で、後ではもう僕を憎んではいないようだった。それが、有吉との本質的な違いだ。今になって分ったのだ。そして僕は、ああいう人物に対して、ああいう存在に対して、腹が立った。本当に怒った……。」
「だから、あたしとも別れようというの。」
「本当に怒って、それから、分ってきたのだ。僕は一人だった、一人ぽっちだった。向うは、大勢……ああいう階級全部を背負っていた。……君だって、嫉妬心にかられた時は、一人ぽっちだった。だが、向うは、あの男は、ああいう人間共……ああいう生活、それ全体を背負っている……。」
「…………」
 彼女は無言で、彼の顔を見つめた。その眼から……下眼瞼の円く開いてる縁から、しみ出すように、涙が……。それがこぼれかけた時、急に、彼の頭に縋りついた。
「いや、いやよ、別れるのは。」
「淋しいのか、一人ぽっちなのが……。」
 彼女はなお強く、彼の肩を抱いた。
「それを、一人ぽっちでなくなすんだ。」
「では、別れない?」
 彼は彼女の手を静かに離して、その額に接吻してやった。白粉のついた冷い額を、差出して、彼女は眼をつぶっている……。
「分るだろう……こんなことをしていては、いつまでたっても一人ぽっちだ。二人できつく抱き合ったところで、やはり、一人ぽっちの淋しい気持は、無くなりはしない。」
 彼女は強く頭を振った。
「それが、男と女との違いだ。」
 云ったあとで、彼の眼の底は、熱くうるんだ。
「僕は、いつか云ったことを、いさぎよく取消そう。女は、子供を産まなければいけない。子供だ。男は……。僕は、久しぶりに、母のことを思
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