んだ。
「案山子とは何だ、案山子とは……。」
「然し、街路樹よりも……。」
 杉本は突き飛されたのを感じた。それをふみこたえた瞬間、顔の前に、大きな挙《こぶし》が突出された。
「こい!」
 酔っていた。何のことかよく分らなかった……誰にも。好奇の色を帯びた真剣な眼が、幾つも光った。
 大きな拳が、有吉の鼻の頭をこすって、ぬっと、も一度前に出た――極度の侮蔑で卓子の上に、尖った三角ナイフが光っていた。それを掴んで、杉本の顔に皮肉な笑いが上って、どうだ……といった調子で、つきつけたのが、手首をぐっと引かれた。はずみをくって、よろけながら、握りしめた手先の力が籠って、全身の重みがかかった……。
 杉本は、前のめりに、ぱったりと倒れた。
 瞬間の出来事だった。
 次の瞬間、杉本は飛び起きて、顔色を変えて、震える手にナイフを握りしめていた。その腕が、人の手に押えられた。眼の前に有吉はつっ立って、頬に微笑の影を湛えていた。が、その右の大腿部の、軍服が裂けて、血が……。
「ば、ばかなことを! 気をつけろ!」
 そして彼は、一歩よろめいて、卓子につかまった。顔をしかめた。眼を落して、腿の血を見た。
「出て行け!」
 杉本は、歯をくいしばって、憎悪に燃ゆる眼を、相手の眼に据えた。が有吉の眼は、自若としてそれを迎えた。蔑すんだ色が動いた。
「帰してやれ。」
 命令的な、逆う余地のない語気だった。杉本の腕を捉えてる手は放された。杉本は、ナイフを取落し、首垂れて、歩み去った。
 その時、人々に取囲まれながら、有吉は、急に腿の傷口を押えて、椅子に倒れた……。

     六

 静かな、そよとの風もない、星の光の強い深夜だった。
 杉本は古い洋服のまま、半身を机にもたせて、坐っていた。その額に、今まで見られなかった皺を刻んで……。口のあたりの頬が、かすかに震えていた。
「別れるのは、嫌だというのか。」
「…………」
 無言で、英子は唇をかんでいた。頬の贅肉がいつもよりふくらみ、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がいつもより尖って、自然の媚と我執との、ちぐはぐな顔付だった。
「僕たちは、互に、奴隷にはならなかった。それが、僕たちの夢の取柄だ。」
「夢……。」
「……じゃあない、といって、生活でも……。」
 皮肉な色が、さっと彼女の眼に浮んだ。
「では、何……何なの?」
「何か……僕にも
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