い出した。僕がまだ小さい時に死んだ母だ……。」
開いたままの窓から、冷い夜気が流れこんできた。彼は立上って、窓のところへ行って、空を眺めた……。
いつのまにか、その後ろに、彼女も立っていた。
「どうするの、これから……。」
「沢山仕事がある。先は遠い。ゆっくり、あせらずに歩くんだ。君と別れて、僕は却って、君と強く結びつくような気がしそうだ。」
「…………」
見返すと、彼女の若々しい髪が、肉体が、電気の光を滑らして、息づいていた。それ全体が、一の抗弁のよう……。
彼はいきなり彼女を捉えて、胸に抱きしめた。
「許してくれ、それより外に、仕様がないんだ。」
「自由になりたいのね。」
「…………」
「いいわ。あたしも……自由に……。大丈夫よ。自暴《やけ》は起さないから。」
「誓う?」
「…………」
彼女はただ笑った。彼も憂欝な微笑を浮べた。
隣りの部室には、昼間の労働に疲れた、若いトルストイアンの小林が、深い寝息を立てていた。
七
有吉祐太郎の大腿部の傷は、快癒までに二週間を要した。彼はその間に、休職を願った。そして一年ばかり過ぎて、免官の許可を得た。蔭で、田代芳輔の口添があったのは勿論である。
有吉は軍服をすてて、背広にかえた。頭髪を伸して、代りに、口髭を短く刈りこんだ。
その頃、杉本はもう上海に行っていた……。その断片的な消息を、有吉は警視庁の内部から得た。
「彼奴《あいつ》……。」
そう独語しながら、有吉は、やはり憎悪の念を持ち得ないのである。――
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
1929(昭和4)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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