気持を助けたのかも知れません。その気持の中にぽつりと、あの燈籠流しの晩のことが、孤立して、夢のように浮んでいました。全く夢のように杳《はる》かなものでした。
それに、私は賑かなことが好きでした。酒に酔うようになったり、芸者衆と近づきになったりしますと、愛情なんてもの、ばかくさくなってきます。政党の或る有力者を旦那にもってる芸者がありましたが、政府筋の局長級の人と実業家と旦那と三人で、よく密談などに来てるうちに、その芸者は旦那と別れて実業家の方になびいてしまい、そのいきさつが、何千円かの小切手だったと、笑いながら私に打明け話をしました。芸者でなくとも、女は大抵、男から見れば、享楽の道具で、物品と同じではありませんかしら。私の結婚生活でもそうでした。だから女から見れば男は札束だとしてもよろしいでしょう。
私の店にも、ずいぶんいろんな人が来ました。おおっぴらに冗談を云いかけたり、露骨にからかったりする人は、始末がよろしいんですが、いやに遠廻しにパトロンのことをかぎ出そうとしたり、いやらしい眼付をしながらつんと澄したりしてるのは、一番たちが悪いんです。ところが、平賀さんは少し調子が変っていました。頭が禿げかかってるせいでもありますまいが、ばか丁寧な口の利きようをするくせに、いやに図々しく、月にどのくらい食いこみになりますか、それは困ったものですね、少しのことなら御用達しましょうと、そういった調子なんです。店の造作も少し変えた方がいいでしょうと、いろいろ指図までするんです。もう叔母が亡くなってからは私一人で、小女が二人いても相談相手にはならず、だんだんやりきれなくなって、平賀さんに相談してみますと、初めにこれこれ出そう、そして月々百五十円、但し向う三年間のことにしょうじゃありませんかって、はっきりしています。私も少しおかしくなって、始終入りびたりでは困りますよと、冗談を云ってみると、いや月に一回か二回だって、澄したものです。私の身体のことなんか、更に感情のことなんか、まるで問題でなく、一言の断りもなくて当然の条件となっていたのです。あまりさっぱりしてそしてはっきりしているので、私もうかうか乗ってしまいました。あまり明かに物品扱いをされますと、自分でも気がつかないで、通り越してしまうのかも知れません。売笑婦なんかも、そうなんではないかと思われます。
ところが、それより少し前頃から、今村さんの様子が違ってきました。正直に働くのはよいことだが、こんな商売より何かほかに仕事はないものでしょうかと、そういうことは前々からの意見なので、繰返されても別に不思議ではありませんでしたが、私が酒に酔っていると、妙に悲しそうな眼付でしみじみ見ますし、そのくせ御自分では、度々酔ってることがありました。或る晩、もう店をしまった時分にやって来て、締りをした表の戸をわざわざ開けさせ、そのくせ酒を飲むでもなく、私の顔をじいっと眺めて、握手をして、一度本気に殴りつけてやるから覚悟していらっしゃいと、そう云ったきり、呆気にとられてる私をすてて、立ち去ってしまいました。
その、殴りつけるというのが、学校のお仲間の方へとんでいったので、私はびっくりしました。今村さんと御一緒に先生をしてる方で、一度今村さんに連れて来られてから、時々見える人がありましたが、その人の酒の上の話から、私はすっかり様子を聞きました。そして今村さんと私との仲がへんな風に伝えられてるのを知って、またびっくりしました。腹も立ちました。ためしに、平賀さんに向って、今村さんと私との間をどう思いますかと聞いてみると、どうだってそんなことは構わないと、問題にもしません。それで私はなお腹が立ちました。
丁度その頃、私は平賀さんから頼まれて、或る御宅へ、夜の園遊会みたいなものの手伝いに行きました。広い庭に桜の花が見事に咲きかけていて、篝火がたいてあり、おでんや鮨の屋台が出ていました。お客は十二三人で、芸者衆も四五人来ているのに、何で私までも……と思っていますと、やがて、平賀さんから、向うにいる背の低い痩せた精力的な人を指し示され、あの人のところへ行って、戦争の話でも酒の話でも飛行機の話でも、何でもいいからきっかけをつくって、会社の増資が果して行われるかどうか、それだけを聞き出してもらいたいと頼まれました。そして私はそこの主人から、このひとも福岡の出身だといって例の人に紹介されました。それからとにかく増資のことを大体聞き出しましたが、そういう風ないきさつは、実家にいる時、また結婚先でも、いろいろ耳にしたことがありましたのに、その時だけは、へんに憤慨めいた気持がわいてきました。
いろいろなことで、むしゃくしゃし、腹が立ち、自分自身が穢らわしくなり、そして今村さんの少し取乱した様子を見ますと、あの時のことが、あの昔の燈籠流しの晩のことが、むず痒いような気持で新たに思い出されました。そこに、なにか、ぽつりと火がともってるようです。ぽつりと、遠く美しく火がともっています。私は夜の蝶のようにその方へ飛んでいきたくなりました。珍らしく、ほんとに珍らしく、涙が出てくると、それに自分で腹が立ちました。私はどうかしていたのでしょうか。生涯何一つ美しい思い出を持っていない私です。あの遠い火を失いたくない。そうして私は、今村さんと一緒に海を見に行きたくなりました。今村さんを誘いました。ところが、その日、歌舞伎に行く筈だったのを忘れていました。私一人ならいいけれど、平賀さんと一緒だったのです。その腹癒せに……というよりも何だか逆上《のぼ》せて、今村さんと一緒に一夜過してやれという気になりました。
もう私は、何にも外のことは考えたくありません。今村さんと、せめて、一夜だけの道行きをしたい、それだけです。淋しいのは、こうして今村さんと一緒に自動車にゆられています今、あの昔の遠い火がどこかへかすんでしまったことです。こんな筈ではなかったのですが……。いえそれよりも、あの時、私はなぜ今村さんに凡てを許してしまわなかったのでしょうか。私の方から誘惑することも出来た筈です。私はもう汚れています。汚れない前に、あの時、なぜ今村さんに身を投げ出していかなかったのでしょうか。今となっては、もう遅すぎます。けれど、夢を見ることなら、あの続きの夢を見ることなら……。それにしても、今村さんの手、どうしてこう冷たいのでしょう。いえ、顔を見てはいけません。眼をそらして、遠くを見つめて、続きの夢を見るのです……。
三
大森の海は、汚くて泥くさかったが、俺にはさほど嫌ではなかった。今村と波江の室からは遠慮して、第一そんなところ可笑しくて見ちゃいられないし、俺は夜遅くまで海岸をぶらついて、それから、コンクリートの岩壁の隙間にはいり、ぐっすり寝こんだ。
頭の上で何か音がしたので、眼をさますと、驚いた、こんなに早く、といってももう八時頃だったろうか、今村が下駄をつっかけ、庭の境の竹垣をまたぎ越して、岩壁の上に来て屈みこんだのである。もう着物にきかえ、顔も洗い、髪もなであげていたが、頬の肉がおち、眼が窪んで、そして両の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりに、結核性とも見えるような、かすかな赤みがさし、目玉は昨日よりも更にどんよりとしていた。室の方を見ると、雨戸もすっかり開け放たれ、波江は鏡台に向って髪をとかしていた。
東の水平線に或る高さまで雲がかけていて、その上から、太陽が覗き出したところだった。今村は寒そうにこまかく震えながら、朝日の光の中にちぢこまり、穏かなそして鳥肌だったような海の上を、ぼんやり眺めた。鴎が数羽飛んでいた。
俺は静に話しかけてみた。
――いい朝ですね。
没表情な顔で、返事はなかった。
――どうでした。成功でしたか。失敗でしたか。
意味がよくのみこめないらしかった。
――寒いんですか。
――寒いようだが、朝日は暖い。
――昨夜、よくねなかったんですね。
ちょっと眉をあげて、考え深そうな眼付をした。
――波江さんから、いじめられたってわけですか。
白痴めいた薄笑いが口許に浮んだ。
――どうです、今でもやはり、波江さんを愛していますか。
――分らない。ただばかに淋しい。
――淋しい?……へんですね、朗かになる筈じゃなかったんですか。
――力がないんだ。身体に……精神にも……。
――ひどく常識的ですね。まあ歩し[#「歩し」はママ]、歩きませんか。元気が出ますよ。
それでも、じっと蹲ったまま身動きもしなかった。
――ごらんなさい、いい天気ですよ。も少し太陽がのぼると、靄も消えてしまって、うららかな春の日になりますよ。どうしたんです、いやに考えこんで……。綿布商人の妾なんか、蹴飛しちゃいなさいよ。
――そんなものは、とっくに蹴飛してる。だが、僕の胸の中にあったのは別なものだ。僕の考えは的を外れてたようだ。
――そんなら、あんなばかげたことをやったのも、みな無駄だったんですか。
――無駄ではない。僕は自分自身を軽蔑することを知った。
――つまり、生きてるのが嫌になったんですか。
――いや、こういうところから却って、生きてるのがしみじみ嬉しくなるだろうと思う。
そういうことになってくると、俺には面倒くさくって、勝手にしろという気になるのだ。俺が知りたいのはもっと肝腎なことだが、今村の考えは他の方に向いてるらしかった。
――少し歩きませんか。そんな風にしてると、自分自身から軽蔑されるばかりでなく、波江さんからまで軽蔑されますよ。
今村の心には通じなかったらしく、黙ってじっとしていた。俺はつまらなくなって、伸びを一つしておいて、室の方に行ってみた。すると、すぐ後から、今村ものっそりついてきた。
波江はもう身仕舞いをすましていたが、化粧をしていないその素顔が、びっくりするほど蒼ざめていた。そして口をきっと結び、寝不足らしい瞼はしてるが、眼付に黒ずんだ険しい光を帯びていた。
二人はちらと視線を合したがすぐにそらし、開け放した障子の両端に離れて、波江は坐り、今村は腰をかけた。そして云い合わせたように、どちらも同時に煙草に火をつけた。
「いま、御飯をそう云ったんですが、お酒をあがるんでしょう。それとも、ビールになさいますか。」
「酒にしましょう。」
然し、波江は聞きすてて、坐ったまま動かなかった。
東の空の雲は次第に水平線に低くなり、太陽の光は強さをまして、海面にふりそそぎ、そのために無数の小波がたってるかのようだった。
料理が運ばれてきた。そして二人で、呆れたことには、朝っぱらから酒をのみ、今村はへんなことを尋ねた。
「ここは、御存じの家ですか。」
「いいえ、初めてです。」
「でも……。」
「芸者衆にきいて、電話をしといてもらったんですの。」
それだけで、話はとぎれてしまった。暫くしてから、波江は眉根をぴくりとさし、急に顔を赧くしながら云った。
「あたし、もう帰りますけれど、あなたはここで、ゆっくりやすんでいらしたらいかがです。」
「いや、僕も帰ります。」
それでもなんだかぐずぐずして、然し御飯には手をつけず、やがて波江は床の間の電話器をとって、勘定書を求めた。
出かける時に、女中を先にたたせておいて、今村はちょっと躊躇してから、波江の肩に軽く手をやった。そして波江は求めらるるままに、然しきっと結んだままの唇を与えた。
外に出ると、今村は急に、横浜の方まで散歩したいと云い出した。それを波江は冷淡に打捨てて、何か一念に凝ってるようだった。軽く会釈をして、自動車に乗り、もう見向きもしなかった。
今村は通りがかりの自動車をひろい、横浜まで走らせながら、両腕をくみ、眼をとじた。
横浜の海岸の公園まで行った。そして今村は、沖についてる気船を眺めたり、日の光を仰いだり、石垣の上から釣をしてる人の側に長い間立ち止まったりして、それからまたぶらついてるうちに、何かに躓いて倒れかけた。それをふみこたえて、苦笑したが、やがて、何と思ったか、帽子をとって、そ
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