のま新しいのをくしゃくしゃにまるめ、力一杯、石垣の上から海中に投げこんだ。帽子はまた広がって、うねりに揺れながらふわりと浮いていた。
 今村の顔には次第に生気《せいき》がさしてくるようだった。南京町にいって、支那料理屋にはいり、老酒《ラオチュウ》をのみ、よく食べた。それから電車で東京に帰っていった。
 電車の中で、今村は窓にもたれてうとうとしていた。その様子がすっかり心の落着きを示していたので、俺も安心して、言葉をかけてみた。
 ――波江さん、腹をたててたようですよ。あれで見ると、あなたのもくろみもまず成功だったわけでしょう。だが、最後に未練がましいことをして、きっと結んだ唇を差し出されるなんて、あまりいい図じゃありませんでしたね。その代り、帽子を海に投りこんだのは、ちょっと象徴的で、よかったですよ。
 今村はうっすらと眼を開いて、また閉じた。そしてうつらうつらしながら、呟いたのである。
 ――最後のキスなんて、お別れの形式的なものだから、どうでもいいんだ。帽子のことだって、象徴的でもなんでもありゃあしない。ただ頭を風に吹かせたかっただけのことだ。頭を風に吹かせる……それが一番大事なことだった。考えてみると、僕はばかな妄想に囚われていた。そもそもの初め、あの昔の燈籠流しの晩のことだって、僕はあの当時、東京で、ひそかに想いをよせてる女があった。その女が、丁度波江と同じくらいの背恰好だった。そのため、あんなことになったんだが、僕の心は、東京のその女にだか、波江にだか、どちらにキスしたのか分らなかった。だから、あのまま何でもなく別れられたんだ。ところが、最近、おかしなことがあった。雨の降る晩だ。僕は酔いつぶれて、あの店の奥の三畳の室に、ぐっすり眠っていた。するうちに、なんだか僕の名前を呼ぶ声がするようなので、なかば夢うつつで耳をかしてみると、話声がしている。――あたしと今村さんと……。――結婚はまさか出来ますまい。――それじゃあ、愛人とか、岡惚れとかってのは。――それもいいが一体、今村君は……。――ないんですの。――……仕様がないですね。金がなくちゃ、面白く遊ぶことも出来ませんし……。――だって、そんなのが却って……よくそう云うじゃありませんか。あたし時々、お小遣をあげて……。たのしみですわ。――そういうのが、空想という……。あなたは一体、空想が多すぎますよ。――よくそう云われますの。どうしてかしら。――似てるんですね……空想家でしょう。――ええ、そうらしいですの。――やはり、南の方の人は、そうですかね。――それきり、話は他のことに移っていったが、それまでのところ、とぎれとぎれにきいたんだが、明かに僕のことだった。話してるのは波江と平賀なんだ。僕は苦しい狸寝入りを続けて、やがて呼び起されるまでじっとしていた。起き上ると、黙って出ていってやったが、雨の中を歩きながら、無性に腹がたってきた。一体波江には、無意識的に男を誘惑する性質がある。昔だって、黒川との結婚のことを相談したりしたのも、真意のほどは分ったものではない。今だって、平賀に僕のことを、さもわけありそうに話してるのも、真意のほどは分ったものではない。たとえ無意識的にもせよ、そういう技巧があるとすれば……そんな風に僕は考えて、やたらに憤ろしい気持に駆られた。而もその憤懣が、一層僕を彼女に惹きつけ、そのためまた更に腹が立った。僕はなるほどばかげた空想家だ。彼女もそうらしい。そして僕がもし彼女に本気で惚れてるんなら、こちらが破滅するか、先方を殺すか、そんなことになりそうな気までした。僕が恐《こわ》くなった。それが更に僕を彼女の方へ惹きつけた。そこへもってきて、彼女と平賀との一件だ。卑劣な取引だ。僕が多少の平衡を乱したとて、無理はないだろう。僕は自分自身にも復讐し、彼女にも復讐せずにはいられなかった。その際、僕のような男にとって、復讐の唯一の途は、自分自身を辱しめ、彼女を辱しめることだ。……ああもう沢山だ。君が云った通りだ。僕は君の流儀に改宗するぞ。頭を風に吹かして、さっぱりした。
 ――ほほう、漸く気がつきましたね。だが、あなたはまだ波江さんを……波江さんみたいな存在を、呪ってるようですね。それじゃあこの先危っかしいものですよ。
 ――うむ、僕はあんなのを呪ってやる。それでも僕自身、安全なのに変りはない。
 俺は頭をふったが、黙っていてやった。今村はさも眠そうだった。もう顔を腕に伏せて、ぐったりとしていた。その様子を見ながら俺は、だが此男あんがい物になるかも知れないぞと思った。東京駅につくと、今村はびっくりしたようにとび起きて、きょとんとした顔付で、網棚の上に帽子を探したが、思い出したと見えて、すたすた電車から降りていった。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
   1938(昭和13)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年4月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング