女と帽子
――「小悪魔の記録」――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)心窩《みぞおち》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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     一

 今村はまた時計を眺めて、七時に三十分ばかり間があることを見ると、珈琲をも一杯あつらえておいて、煙草をふかし始めた。卓子に片肱をついて、掌で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を支えながら、時々瞼をとじては、何かぴくりとしたように見開いている。もうこうなったら、俺のものだ。然し、最後になおちょっと元気をつけておいてやる必要もあるし、心窩《みぞおち》のあたりを擽ってやりたくもなったので――眠いんですか、それとも、瞼が重たいんですか。どっちにしても同じことだが、しっかりなさいよ。あなたのその、薄茶色の帽子がま新らしく、へんにしゃちこばってるのに対して、大島の着物も羽織も、折目がくずれてだらりとしてる、それだからといって、あなた自身、ちぐはぐじゃいけませんよ。何をびくりびくりしているんです?
 じっと、そこに腰掛けておればいいんです。死人のように、ぐったりと、身体をもたせかけておけばいいんです。一昨日からのこと、私も少々呆れたくらいだ、あなたも相当なもんでしたよ。いくらか疲れたでしょうね。瞼がはれ上り、顔がむくんでいて、血の気がなくて総毛だっています。目玉も底が濁っています。顔全体が、表皮の一重下に、蝋でもぬりこんだようですよ。然し、それで思い通りじゃありませんか。実際、あなたの計画には私も驚嘆しましたね。
 ほんとは、波江さんに惚れてたんじゃありませんか。いい加減に白状なさいよ。え、よく分らないって、それだから、その煮えきらないところが、嫌んなっちゃうというんですよ。私が筋途立てて説明してあげましょうか。
 はっきり云いますよ。波江さんは福岡の料理屋の娘だ。だからそのお父さんは料理屋の主人だ。その料理屋の主人が政治に頭をつっこんで、市会議員になり、更に代議士になろうとの野心を起した。そのため大変金がいる。そこへ、金持の黒川さんが、娘の波江さんにひっかかってきた。波江さんのお父さんに異議のあろう筈はない。波江さんは、無理に、だかどうだか分らないが、とうとう口説き落されて、二十も年齢のちがう黒川さんのところに、而も後妻に、嫁にいった。するうちに、黒川さんの放蕩は次第に露骨になってくる、実家は政治関係の負担で、破産に近い状態となり、黒川さんにも可なりの迷惑をかける。そんなこんなで、波江さんは福岡から東京に出奔してきた。東京に叔母さんがいた。二人して、日本橋の裏通りに小料理屋をはじめた。初めはどうにかいっていたが、叔母さんが死んだりして、其後店もうまくいかない。もう三十にもま近くなっている。そこで平賀さんから、うやむやのうちに、補助を受け、世話を受ける、というようなことになってしまった。それだけのことで、別に不思議はありませんやね。
 表面だけを辿れば、世間のこと万事、不思議はありませんが、裏面に、へんてこな心理の綾ってものがあるんですね。先年、あなたが郷里の福岡に帰った時、波江さんと、母を通じて知りあいになり、当時、波江さんには、まだ女学生の匂いが残っていたし、黒川さんとの結婚談に悩んでいた時だし、あなたも純情だったし、そしてあのお盆の燈籠流しの晩、どういう風の吹き廻しか、二人でキスしましたね。それきり、こいつは私の気に入ったことだが、あなた達はさっぱり別れてしまった――あなたは東京に戻ってくるし、波江さんは結婚してしまった。ところが、波江さんが東京に出て来て、小料理屋をはじめてから、波江さんはあなたに手紙を出すし、あなたはいそいそとそこに出かけていったものですよ。その時あなた達の再会の場面は、私は見そこなったが、どんなでした? 面白かったですか、酸っぱかったですか。
 波江さんも変っていましたね、丁度女盛りではあるし、さんざ苦労をしてきながらも、明るくてのんきで空想的で、また大体世の中を知っているだけに、常識的だが理知の閃めきもあり、客との応対も手にいったものでした。云わば半ばしか堅気の風格は残っていませんでしたね。さすがは、根が料理屋の娘だし、南国の女ですね。それに元来、堅気の世帯くずれの女ってものは、一度解放されると、特殊な面白い点が出てくるものですからね。しまいには、お客さんといっしょに、待合やバーに飲み歩いてたじゃありませんか。
 あの店は、波江さん一人でもってるようなもので、波江さんがいないとつまりませんね。大体が陰気だし、酒は普通だが、料理はつまらない。博多の本場風だといってる鶏の水たきが、東京にざらにあるどの水たき屋よりもまずいから、呆れたものですよ。もっとも、おでん屋風の腰掛の店で、ちゃんとした道具立でないから、無理もありませんがね。それにあの、おきゆうと……あれだってただ珍らしいだけですよ。特殊な海草から取れるものだとか、あちらの人は大層好きなようですが、ところてんをざらざらにして磯の香をつけた、それだけのもんじゃありませんか。乾製にしたお煎餅みたいなやつを、一晩水につけてふくらましたんだから、本来のものより味はおちていましょうがね。そのおきゆうと、まずい水たき、他にちょっとしたものと、酒だけですから、繁昌するってわけにもいきますまいよ。
 その店に、どうしてあなたが度々飲みにいったか、そのことですよ。専門学校の英語の教師で、地位こそ低いが、相当世間の注意も惹いてる評論家だし、一時はプロレタリア運動にもシンパの地位に立っていたし、其後、文化史の研究に精進してる、そのあなたがですよ。そのあなたが、あすこへ行くと、時によって、妙に饒舌になったり、妙に感傷的に黙りこんだり、そして始終、波江さんの方に気をひかれ、眼を引かれてたじゃありませんか。波江さんもおかしい、あなたにはなかなか勘定を払わせなかったし、どうかすると、十円札一枚くらいそっと貸してくれましたからね。恐らく全部清算してみると、そんなこと帳面にもついてないから分らないが、あなたはあすこで、初めからただで飲み食いしてたことになるかも知れませんよ。それも、あなたにせよ波江さんにせよ、あなたの将来の輝かしい業績のためにとかなんとか、そんなこじつけの気持があったんなら別ですが、そんなこと少しもなく、ただだらしなくそうなったんだから、少しおかしいじゃありませんか。もっとも、私はそんなのが大好きですが、まあ普通の人間の考えとしてはですね……。だからへんな噂も立ちましょうし、へんなことにもなるんですよ。それをあなたは押し通すことが出来なかったじゃありませんか。
 も少し早く、私の流儀に、宗派に、改宗なさるとよかったんですがね。平賀さんと波江さんとの中をかぎつけた時の、あなたの顔付は滑稽でしたよ。平賀さんが、四五人客のいる前で、小さな紙包を波江さんに渡すと、波江さんはそれを受取って、すぐにしまいこみましたね。ところが平賀さんは平気で、その紙包みの中のものを、あなたに向って吹聴したじゃありませんか。堀ノ内のお祖師様にだけある妙法丸とかいうもので、あらゆる腹痛にきく特効薬で、副作用は絶対になく、自分の家では祖母の代から実験ずみだとかなんとか……。あの男、いやに丁寧で、物腰も静かだが、なかなかくわせ者ですよ。人間五十にもなれば、誰だって相当にくわせ者になりますがね。それはとにかく、平賀さんの薬の渡し方と、波江さんの受取り方と、それをすぐにしまいこんだ様子など、よほど親しい仲でなければああはいくまいと思わせるものが、あったでしょう。それをすぐに気付いたあなたも、さすがですよ。それからあなたは黙りこんで、酒ばかり飲んでいましたね。
 次の時は、もっとはっきりしていました。まだ宵のうち、平賀さんはもう相当に酔っていて、外に出ようとすると、そこに置いてある棕梠竹の鉢にぶつかってよろけた、ところを、後から送っていった波江さんが、手をかして支えてやった。普通なら、ははは酔ったな、とか何とか笑ってしまうところを、二人でそこに立ち止って、何かひそひそ話をしている。それが、檜の丸たん棒の値段のことじゃありませんか。店の造作に関することなんでしょう。あなたは耳をそばだてながら、苛立ちそして悄気ましたね。
 あなたの目についたのでもそれだけあるとすると、陰でどんなことがあったか分ったものじゃない。そして偶然らしく平賀さんの話が出た時、彼が或る会社の重役だということを聞いて、あなたは目を丸くしましたね。全く、会社の重役という柄じゃない。だが、合名会社で、綿布類をあつかう商売だと聞いてみれば、驚くに当りませんよ。驚いたのは、あの時のあなたの挨拶だ。
「あたし、どうにもやりきれないから、平賀さんにお金の融通をお頼みしたんですけれど……。」――「そんなことをして、あなたは、堕落してもいいんですか。」
 その時、波江さんは唇をかんで、冷たい石像のようになりましたよ。女の決意というものは、どんな機縁でどんな方向にむくか分らないものです。生命をかけて信頼出来る真心、それはめったに見出せないものですが、それに縋りついていない限りは、いつも宙に浮いてるようなものですからね。いや、男の決意だって当にはなりませんよ。あなた自身のこと、よく考えたら分るでしょう。
 然し、私はあなたに賛成です。悉く賛成ですよ。やはり私が見込んだだけのことはあります。
 先日は素敵でした。あれ、学校の学年初めの懇親会とか、そんな会でしたね。あの方面は、何よりも憂欝ですね。みんな月給は少いし、相当の生活はしなければならないし、それかって、職工みたいに夜業をしたりなんかする余分の仕事はないし、僅かの時間を――随って月給を――必死になって固守しながら、隙があったら、いくらでも他人の時間を奪おうとしてるんでしょう。それからヒントを得て、私は愉快なことを考えたことがありますよ。会社を創立して、安い月給で大勢の社員を雇い入れる。いくら月給が安くても、失業者がうようよしてる現今、社員は不足しない。そこで、仕事にあり余るほどの社員を雇っておくと、みんな、朝から晩まで社内に鮨づめになって、而も自分の地位を失うまいとして、浅ましい競争、排撃、内紛が起ってくる。面白い光景を呈するでしょうね。
 ところで、その……懇親会でしたか。あなたのことをあてつける者がいましたね。あなたも少し用心が足りないものだから、波江さんとのことを随分誤解されて、陰でいろいろ噂に上ったりして、とんだ艶聞を流しましたね。いけないのは、あなたが評論家として少し知られてきたことで、彼奴生意気だと云う者があり、それについて、小料理屋の女とくっついてるとか、女を搾ってるとか、それをまた、あなたに贔屓する者があって、わざわざ報告したり、うるさいことでしたろう。懇親会の時は、みんな酔ってきたものだから、聞えよがしのあてつけも出てきたわけです。ところが、あなたも少し、酔ってもいたが、虫の居所がわるかったのでしょう。
 あなたのことを日頃いろいろ中傷していた塚田さんの方へ、つかつかとやっていって、塚田君、とただ一言云いましたね。顔色もかえず、落着き払った態度で、見事でしたよ。呼ばれて振向くところを、頬辺に、拳固で一撃くらわしておいて、すたすたと会場から出て行ったのがよかった。人を殴るにはあの骨法だ。いきなり一撃くらわして、相手がよろめきながら、呆気にとられて、まだ喧嘩の気組みにならない先に、すっと引上げるんです。殴り合い取っ組み合いになったら、勝っても負けても、胸のすくように、すっきりとはいきませんよ。
 本当を云えば、塚田さんを殴ったことは、恐ろしくあなたに不利でした。根もない蔭口なら黙殺するに限るので、人を殴ったとなると、根があったことになりますからね。それを承知でやったとすると、あなたも大したものですよ。だがあれは、実は、まだ癇癪まぎれの気味がありました
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