ね。だからごらんなさい、あれの影響もあって、波江さんに対してへんに真剣になったじゃありませんか。波江さんもあの時のことを、誰からか聞いたようです。おせっかいな奴がいたもんですね。
 そんなこんなで、あなたと波江さんとは、へんに打解けた話がしにくくなりましたね。懇意な間柄で話がしにくくなってくると、やがて爆発が起ってくるものです。私は楽しみにそれを待っていましたよ。ところが、案外つまらなかった。もっとざっくばらんにいかなかったものでしょうか。
 たしか、波江さんから云い出したんですね、何かふさいでいなさるようだから、気晴らしに奢ってあげようって。あの時は、まるで謎のかけあいみたいでしたよ。何をふさいでるのかと波江さんが聞くと、入用な書物を買うのに金がなくて困ってるなんて、よくもあんな出たらめが云えましたね。すると波江さんは、あなたの手に百円札を一枚にぎらしたでしょう。その謎で、波江さんは平賀さんの世話になることになったという事実が、お互いに通じ合ったんだから、呆れたもんです。それからいやにしんみりして、バーのボックスの中で、波江さんはあなたにじりじり身体を押しつけてきて、一緒に海が見たいからって……そう云うと、それが、昔、福岡の海岸の燈籠流しの晩にキスしたことを、なつかしく思い出してることになったんですね。二人でジンカクテルを飲みながら、相当センチになってましたよ。そして相当見っともなかったですよ。上べだけ元気そうな口を利きながら、本当の思いはちっとも云わずに、心は胸の底深く沈みこんでいましたね。
 あの夜、あなたはよく眠れなかったようですね。寝返りばかりしていたじゃありませんか。そして翌朝になると、波江さんから電報が来、やがて速達郵便が来て、今日は行かれなくなったが、明後日の午後七時に御待ち合せしたい、一泊のつもりで……と云ってき、あなたはすぐに承諾の返事を書いて、それから考えこみましたね。何を考えていたんです? 私がいろいろ忠告しても返事をしないで、縁側に寝ころんだまま、起きてるのか眠ってるのか分りませんでしたよ。あなたの社会正義観から云えば、波江さんが金を得んがために身体を提供し、云わば妾同様な生活にはいるのは、許す可らざることかも知れませんよ。然し、ああいう商売をしてゆくにはパトロンの一人や半人くらいあるのが、普通のことですからね。波江さんが東京に出て来てから、一人の男の肌にも触れなかったと、あなたは信ぜられますか。それはとにかく、あなたが深く考えこんだのは、そんなことでなく、もっと身近な直接的なことではありませんでしたか。
 初めは、私にもあなたの真意が分かりかねましたよ。夕方になって慌しく、大島の着流しに草履ばきで、帽子もかぶらず手荷物もなく、ステッキ一本で、懐中には波江さんから受取った百円とありったけの金を用意して、四五日旅をしてくると、だしぬけに出かけたんですからね。お母さんや女中ばかりでなく、誰だって驚きますよ。
 あなたが先ずその薄茶の帽子を買ったので、私は初めて微笑したものです。それからあなたは銀座裏で酒をのみ放め、その晩は富士見町の待合にしけこみ、翌日はまた酒、夜はまた銀座裏、そして遅く、吉原までのしましたね。自暴自棄でしてるのかと思うと、そうでもない。妙に積極的な放蕩でしょう。そして精力を浪費してしまったんですね。
 もうこうなったら、本望でしょう。あとは、ただ試してみるだけのことです。時間を気にしなくてもいいですよ、きっと波江さんは来ます。少しくらい後れるかも知れませんが、まあゆっくり落着いておいでなさい。精根つきたって様子をしていますね。そうでしょうとも。だが、何でそうびくりびくりするんですか。胸でもむかつくんですか。
 面白かったですね。あなたが酒飲みなことは知っていたが、あれほどとは思いませんでしたよ。あなたの真意が大体分ったので、そうなれば私の領分ですからね、私も大いに愉快にやりましたよ。覚えていますか。え、よく覚えていない……それも無理はありません。面白いことをきかしてあげましょう。銀座裏で、橋のたもとに出た時、あなたはしきりに橋の欄干に上ろうとしましたよ。ところが、おかしなもので、充分に身体を乗り出さないものだから、何度もしくじりましたね。もっとも身体を乗り出しすぎたら、掘割の泥水の中に落っこちますがね。酔っ払ってても用心はあるもので、その用心が適度にもてず、いつも後へ後へとずり落ちてしまったんです。あなたのその様子を見ながら、私は考えましたね、人間てものは酔ってなくても大概こうなんだと。ちょっと肚さえきめれば、こわごわ尻をつき出さずに、ちゃんと橋の欄干の上につっ立つくらい、わけはないじゃありませんか。
 富士見町に行っても、吉原に行っても、行った夜は、あなたは元気で積極的で動物的でしたが、翌朝になると、しかつめらしい顔付でむっつりしていましたね。あんなのは女に嫌われますよ。どうしたんです? 良心というか、矜恃というか、何かがそこなわれでもしたんですか。そんなら初めから行かなければいいんです。行った以上は、そして明確な意図を以て遂行した以上は、翌朝になって何を不快がることがありますか。
 今日午後、あなたは見当り次第の銭湯にとびこみましたね、広い流し場で、客は一人きりなく、午後の日脚が硝子戸からさしこんで、湯気がほんのりたっていました。その日向のところへ、湯壺から出たあなたは身体をなげ出して、胸や腹や手足の肉体を、ぼんやり眺めていたでしょう。ああして見ると、あなたの肉体もちょっと綺麗ですね。女の肉体よりも、男の肉体の方が、湯上りには恐らく美しいに違いありません。あの時あなたが、前夜接した女の肉体のことを考えていたのなら、眉をしかめても当然なわけですが、あなたは却って、何かうっとりとしていましたね。放蕩というものは、そうしたもので、醜い女の肉体に洗い清められて自分の肉体が益々美しくなるのです。またあの時、ちらとでも、あなたが波江さんの肉体を美しく想像したとすれば、とんでもない間違いですよ。波江さんの肉体なんか、あなたが知った女のそれよりか美しいわけはありません。白粉のつきのわるいあの顔の皮膚から考えても、分るじゃありませんか。
 あなたは自分の肉体をうっとりと眺め、それから硝子戸越しに、うすく霞んだ空の一隅を、眩しそうに眺めていましたね。あの時、何を考えていたんですか? ずいぶん長くたってから立ち上ると、両腕を伸したり曲げたり、体操のまねみたいなことをやり、二三度でぐったりして、また湯にはいり、頸筋を湯壺のふちにもたせて、仰向にぷかりと、死人のように浮いていました。お蔭で、あなたの身体は、すっかり脂気もぬけ、力もぬけて、骨までもくたくたになったようじゃありませんか。それもあなたの意図の一つだとすれば、よい思いつきでしたよ。
 ただ一つ私の腑におちないのは、湯屋を出て少しぶらつき、髯を剃らせ、洋食屋で軽く食事をすますまで、あなたはのんびりと落着いていたのに、夜になると共に、苛ら立ったような風が出てきたことです。バーに立ち寄っても、すぐに出て来たじゃありませんか。何をいったいじれているんですか。まさか、後悔したというわけじゃありますまい。あなたの顔は、表皮の一重下に蝋をでもぬりこんだようになっています。身体のしんまで疲れて、更に弾力がないでしょう。意図した通りじゃありませんか。そして異常な試みです。ここをつきぬけなければ、何もかも駄目ですよ。落着いてじっと時をお待ちなさい。始末におえなくなったら、また私がいい智恵をお貸ししますよ。何か胸の底からびくりびくりして、みっともないじゃありませんか。胸でもむかむかするんでしたら、ウイスキーか何か、一杯ぐっとやってごらんなさい。
 おや、どうしたんです? 何をびっくりしてるんですか?……
 ――俺が饒舌ってるのをそっちのけにして、今村は顔をこわばらし眼を丸く見開いて、前方を見つめた。振り返ってみると、そこに、波江が立っていたのである。黒がちの縞お召の着物に、花をちらした白っぽい帯をしめ、小さな革のハンドバッグをかかえ、ベルベット紋模様のショールをひっかけ、いつもの通りほんの型ばかりの薄化粧の顔だが、それをへんに赧らめて、眼に興奮の色を帯びて、笑いかけたのを中途でやめ、つかつかと寄ってきた。
「ご免なさい、遅くなって……。お待ちになりましたの?」
 じっと今村に眼をやったのは一瞬間で、すぐその側にくっつくように腰を下した。そして一昨日のお詫びやら、珈琲をあつらえるやら、どこに行きましょうかと尋ねるかと思えば、海の見える室をとっておいて貰ってるとか、へんにそわそわして、小料理屋の主婦らしい態度に生娘らしい調子を交えていた。今村はただ簡単な返事をするきりで、先刻の焦躁の気はなくなり、心身ともにしいんと沈みこんだ様子だった。

     二

 自動車は京浜国道を走っている。波江は袂の下で今村の片手を執りながら、顔をそむけて、外の風物にぼんやり眼をやった。人家の燈火、行きちがう車馬、あとはただ暗い夜空だけだった。今村はじっと眼をつぶっているし、波江の眼はいつまでも見開かれて、外に向けられていた。その眼に、ちらちらと燈火のかげがさして、淋しく美しく、涙ぐんでさえいるように見える。俺も柄《がら》になくしんみりした気持になって、波江の心にちょっとふれてみたく、その心窩《みぞおち》を擽ってやったのである。すると――
 今晩は、外のことはみんな忘れて、あの時のことだけを、じっと考えていたいのです。そしてあの続きの夢としたいのです。丁度、お盆の十五日の晩、私達二人きりで、薄暗い海岸を歩いて、燈籠流しを見物しました。板の上に四方を紙で張った、小さな行燈《あんどん》みたいなものを拵え、中に蝋燭をともして、波打際から、沖へ押し流すのです。大家《たいけ》で新仏のあるところでは、舟を仕立てて幾十もの行燈みたいなものを、沖の方に浮べ流すのです。それが、湾内の静かな海の上にゆらゆらと浮いて、波頭にもその火がちらちら映って、とても綺麗です。
 穏かな晩でした。月は、雲にかくれていたか、それとも出ていなかったか、海岸は薄暗く、そして一面にぼーっとして、かすかな微風がそよそよと吹いてるきりでしたが、夜の浜辺は涼しく爽かでした。磯づたいに、砂の上を、どこまでも歩きたいような晩でした。私達は沖の燈籠を見、波に映ってるその火を見、そして生や死のことなどを考えていました。仰いで星を見ることなんかしませんでした。私には悲しい結婚が、恐ろしい物影のように前に立塞っていました。その時、今村さんと何のことを話していたか覚えていませんが、今村さんは突然私の手を執って、あなたに足りないのは力だけだ、と云いました。私悲しくなって、今村さんの手をはなさず、縋りつくようにして歩いていきました。人がちらほらしますので、浜辺から少し離れて、松の木が七八本立ってるところまで行った時、松の根が出てる上に、今村さんは真白なハンケチを拡げました。そこに腰をおろす時、私は今村さんによりかかってしまい、今村さんは私を引寄せ、そして初めて、キスをしました。強く強く抱きしめられたということ以外は、頭がぼーっとして、何にも覚えていません。
 ただそれだけのことが、どうして今迄忘れられなかったのでしょう? 今村さんも私も、愛してたかどうかさえ分りません。ただああいうことがあったというだけです。私が結婚生活に破れて東京に出て来て、叔母と一緒に小料理屋などを始めた時、今村さんの住所をきいて手紙を出したのも、同郷人の応援を頼むという意味だけでした。けれど、心の底では、単なる同郷人だけではありませんでした。その、何というか、あの時よりずっと前から、赤ん坊の時から、よく知り合ってるというような親しみの気持が、次第に大きくなってきました。今村さんに久しぶりで逢ってみると、私の方が余り変ったせいか、少しも変っていないような気がしましたばかりか、背丈が少し小さくなった――そんな筈はありませんが――でもそういう気がしました。それがなお、親しみの
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