雨戸の外から耳を傾けてみた。何の声も物音も聞えなかった。彼は更に耳を澄した。しいんと静まり返っていた。それでも彼はなお暫く佇んでいた――待ってみた。戸が開いて……敏子が……、そこまではっきりした形を取ると、彼は自分の不貞な空想に駭然とした。そうじゃない、俺は云い残したことがあるのだ! と彼は自ら云ってみた。然し不安は去らなかった。彼は急いで足を返した。けれどもなお庭を歩いていると、其処まで落ち込んでいった彼の頭には、過去の記憶がまざまざと浮んできた。檜葉の茂み、楓の幹、空池《からいけ》の中の小石、それらは皆闇に包まれていたが、それらにまつわってるあの当時の思い出がしつこく頭に浮んできた。然し俺は真に恋したのではなかった、兼子の方を本当に愛してるのだ、と彼は心の中で呟いた。その呟きの下からまた、先刻敏子に対して懐いた一瞬間の興奮を思い起した。彼は理屈に縋ろうとした。夜の燈下の下では、肉体の真の美よりも、肉体の一種のあくどさの方が、より強く男の心を惹きつけることがある。なぜならそれは、美意識を通じて働くのではなくて、直接情慾に働きかけるから。然しそんなのは、取るに足らないことだ、心に関係のないことだ。……そこまで考えた時彼は、なお一層不貞な自分の姿を見出した。その考えは、兼子をも敏子をも共に辱めるもののように思えた。彼は何処まで自分の心が動いてゆくか恐ろしくなった。急いで家の中にはいった。
茶の間へ行くと、兼子がぼんやり坐っていた。何かしら口を利かなければ、自分で自分が苦しかった。
「雨が降ってきたようだね。」と彼は云った。
「そう。」と彼女は気の無い返辞をした。
「この雨ではもう花も駄目になるだろう。」
彼女は黙っていた。
「明日《あした》書斎の花を取換えてくれない? もう凋んでしまったから。」
「水上げが悪かったのですかしら。」
「そうかも知れない。……ほんとに嫌だな。雨か曇りかが多くて。」
「なぜ? お出かけなさるの、明日は。」
「いや出かけはしない……。お前達こそ、これから依子を方々へ引張り廻わすつもりじゃないのか。」
「そのつもりですわ。」
「もう依子は寝たのかい?」
「ええ、先刻《さっき》。」
「一晩余計母親と寝られるので……。」
彼は云いかけてふと言葉を途切らした。兼子は顔を挙げた。眼が濡んでいた。睫毛の黒い影がはっきり見えるようだった。彼は黙って彼女の手を執った。冷たい手だった。彼はそれを握りしめた。そして他のことを云った。
「お母さんは?」
「お居間でしょう。」
彼は立ち上って母の所へ行ってみた。幾代は仏壇の前に坐って、手を合していた。仏壇には蝋燭に火がともされ、抹香の煙が立ち昇っていた。それを見ると彼は、眼に涙が出てくるような心地がした。然し心にもない言葉が口へ出た。
「何をしてるんです、縁起でもない!」
幾代はふり向いて眼を見張った。然し彼女は何とも云わなかった。
彼は足を返した。何を慌てているんだ! と自ら浴せかけた。自分自身が堪らなく惨めな気がした。熱い茶を飲んで、すぐに寝た。布団を頭からすっぽり被った。それは昔からやりつけてる自己催眠の方法だった。然しなかなか眠れなかった。幾度も頭を布団から出したり入れたりした。
翌朝彼は遅く起き上った。昨夜兼子が突然熱烈な態度に変って、しまいに泣き出したことを、また、自分も変に感傷的な情熱に駆られたことを、夢のように思い起した。不眠の後のような、神経の疲れと弛緩とを覚えた。そしていつまでも床の中に愚図々々していた。漸く起き上って出て行くと、向うの室で兼子や依子の笑い声がしていた。彼は変な気がした。何だか家の中の様子が違ったように思われた。顔を洗う時、やたらに頭へ水を浴せた。
敏子は朝早く帰っていったそうだった。
「そうですか。」
彼は簡単に幾代へ答えた。そして何にも尋ねなかった。幾代もそれ以上何とも云わなかった。
依子は別に母親を探し求める風もなかった。幾代や兼子や女中達と面白そうに遊んでいた。玩具に倦きると庭に出た。庭に倦きると表へ出た。そしてまた玩具の所へ戻ってきた。も少し馴染むまでは遠くへ連れていってはいけない、と幾代は云った。その幾代を、依子は「お祖母《ばあ》ちゃま」と呼んでいた。兼子を「お母《かあ》ちゃま」と呼んでいた。
そういう依子を、彼は不思議そうにわきから眺めた。これが自分の子かと思うと変な気がした。「あなたによく似ていますわ。」と兼子はくり返して云った。
遠くから見ると、大きい眼と口とだけが著しく目立った。近くから見ると、髪の毛に半ば隠れてる広い額と短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]とが、何となく不平衡な感じを与えた。短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の下に、更に短い首があって、すぐにいかつい肩へ続いていた――ここの所は敏子そっくりだ、と彼は考えた。然し口へは出さなかった。
「さあ、お父《とう》ちゃまに抱っこしてごらんなさい。」と兼子は云って、彼の腕へ子供を渡そうとした。
彼はそれを一寸抱き取って、すぐ下に下した。しなやかな小さな両腕、円っこい弾力性の胴体、それがずっしりとした重みを持って、足だけが妙に軽やかだった。その軽い足で子供は向うに駈けて行こうとした。不安だという気が彼に起った。彼は俄に子供を捉えて、また胸に抱き上げた。子供は軽い足だけをばたばたやった。いつのまにかべそをかいていた。
この小さな存在は、一体俺を何と思ってるのかしら、と彼は心の中で考えみた。然しその考えは、子供の姿と少しもそぐわなかった。彼は考え直した、一体何を考えてるのかしら?――子供は玩具を持って余念なく遊んでいた。畳の上にちょこなんと坐って居た。白いエプロンが胸から真直に垂れて、膝が殆んどなかった。膝の上に物をのせてやっても、一寸身体を動かせばすぐに転げ落ちた。それでも、立ち上ると帯から下がすらりとしでいた。桜の花を渦巻きに散らしたメリンスの着物の下から、真赤な絹天《きぬてん》の足袋がちょこちょこ動いて見えた。
家中の者が総がかりで、依子を退屈させまいとした。彼女の珍らしがる物はいくらもあった、床の間の香爐、兼子の手提袋、幾代の室の人形柵、庭の隅の桜や椿の花弁、空池の底の小石、玩具に倦きるとそんなものまで持ち出された。けれども晩になると、彼女は不思議そうに室の中を眺め廻した。皆からあやされてもいやに黙っていた。
「お母ちゃん!」と彼女は云った。
「え、なに? お母さまは此処に居ますよ」と兼子は云った。
「お母ちゃま」と依子は云った。それから頭を振った。
依子はどうしても寝間着へ着換えたがらなかった。幾代や兼子がいくらすかしても駄目だった。しまいには泣き出した。幾代はそれを抱いて、室の中をよいよいして歩いた。次には景子が代った。依子は何時までもじっと眼を見開いていた。兼子はそれを背中に負《おぶ》った。電気に蔽いをして室を暗くした。余り長く黙ってるので覗いてみると、依子はもう眠っていた。安らかにつぶった眼瞼の縁に、ぽつりと涙が一滴たまっていた。
幾代が抱いて寝ることになった。布団の上に寝かしても、依子はもう眼を覚さなかった。寝間着に着換えさしても、口をもぐもぐやるきりで、ぐっすり寝込んでいた。
「寝坊な子ですわね。」と兼子は云った。
「昼間の疲れでしょう。」と幾代は云った。
彼は幾度も幾代の寝床へ、依子の寝顔を覗きに行った。依子は変にちぢこまって眠っていた。
「これなら大丈夫だ。」と彼は云った。
「おとなしい子ですわね。」と兼子は云った。「そして大変悧口そうですよ。今朝いきなり、お祖母ちゃまだのお母ちゃまだのと云うものですから、喫驚しましたわ。勿論あの方《かた》が、よく教え込んで置かれたのでしょうけれど……。」
四五日もすれば家の子になりきるだろう、と彼は思った。そしてすっかり馴れてしまえば、万事がよくなるだろう。
然しその翌日、幾代が三田へ行っている留守中に、依子は俄に泣き出した。誰が何と云っても泣き止まなかった。初めは些細なことだった。女中がカステイラを二切皿に入れて持って来た。依子はその半分だけ食べて止した。「もう沢山ですか、」と兼子は尋ねた。依子は何とも答えなかった。「よかったらお食べなさい、」と兼子はまた云った。依子は黙っていた。それで兼子は、残りの菓子をあちらへ持ってゆかした。そしてまた玩具で遊ばせようとした。然し依子は身動きもしなかった。
「あらどうしたの、お腹《なか》でも痛いの、」と云って顔を覗き込まれると、彼女はくるりと向うを向いた。訳が分らなかった。兼子は試みにまたカステイラを持って来さして、手に掴らしてやった。依子はそれを放り出した。「あら、何かすねてるのね、」と兼子は云った。そして菓子を無理にその手へ握らせようとした。依子は執拗に頑張った。「すねるものではありませんよ、」と云われると、急にわっと泣き出した。何とすかしても泣き止まなかった。女中が背中に負って、表へ出てみた。いつまでもしくしく泣いていたそうである。
「どうしたのでしょう?」と兼子は云った。
「屹度、」と彼は答えた、「一つだけ食べて、一つは後まで楽しみに取っておくつもりだったんだろう。」
「そんなら、すぐにまたやったからいいじゃありませんか。」
「そうだね。」
それ以上のことは彼にも分らなかった。恐らく子供に対する態度の違い、家の中の状態の違い、だろうとだけ想像された。彼は前に何度も母から聞いた話で、三田の家の内部を、敏子と依子との生活の有様を、推察しようとした。然し確かな大事な点は少しも分らなかった。
三田から帰って来た幾代へ、彼は種々尋ねてみた。然し彼女はそんなことを何にも語らなかった。彼女は少からず憤慨の調子で、金のことを第一に述べた。
「私がお金の包みを出しますとね、お敏は手にも取らないで、これは永井へ渡してくれと申すではありませんか。こちらからわざわざ届けてやった心が、少しも通じないのです。瀬戸さんの考えや私達の思いやりを、くわしく云ってやりましても、お敏は黙って俯向いたきりですもの。私はも少しで持って帰ろうかと思いました。」幾代は暫く言葉を切って、彼と兼子との顔を見比べた。「けれども、そうしないでよござんした。やはり瀬戸さんの仰有る通りでしたよ。とうとう無理に受取らせることにして、この中に千円あるから一応あらためて下さいと云いますと、え千円! と喫驚したような顔をしました。で私は、五百円は瀬戸さんから永井へ渡してあるので、これで丁度お約束の金高だと云ってきかせますと、千五百円! とまた喫驚してるではありませんか。よく聞きますとね、あれは全く永井のたくらみだったのですよ。お敏はただ、これから小さな煙草店でも出すつもりで、四五百円の補助を受ければよいと思っていたそうです。毎月三十円のうちから貯金もだいぶしているらしいのです。そんなに沢山頂いては済みませんと、なかなか受取ろうとしませんでした。瀬戸さんからの五百円だって、まだ永井から貰っていないのですよ。」
その話を聞きながら、彼は別に憤慨をも感じなかった。それ位のことはありそうだと、前から知っていたような落付を覚えた。幾代が今更怒ってるのが、可笑しいほどだった。それよりも彼は、敏子自身のことを、出来るならば依子が居た当時から其後のことを、悉しく聞きたかった。然し幾代は金のことにこだわっていて、最初の時のような話し方をしなかった。彼女は時々、少しずつ、話してきかした。その上、そんな事柄は彼女の頭に深く残ってもいないらしかった。――依子がお父ちゃまだのお母ちゃまだのと云ってるという話を敏子は大変喜んだということ、そして敏子は余り依子の其後の様子を聞きたがらなかったということ、その二つだけが彼の心に印象を与えた。
幾代は帯の間から小さな金襴の袋を取出した。中には鬼子母神の守札がただ一枚はいっていた。敏子が云いにくそうにもじもじしながら、これを依子の肌につけてくれと頼んだそうである。――然しなぜか、その守札は仏壇の上に乗せられたままになった。
俺は……
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