俺が……これから依子の運命を護ってやろう、と彼は心の中でくり返した。
 然し依子の日常は、殆んど幾代と兼子との手中に在った。彼は傍からただじっと、依子の姿を見守るの外はなかった。彼は殊に依子の膝のない坐り姿を好んだ。膝がすっかりエプロンの下に隠れてしまって、遠くで見ると胴体だけで坐ってるかのようだった。彼は近づいていって、坐ったままの彼女を抱き上げた。彼女は足と手とを伸そうと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。小鳥のようにこまこました運動が彼の腕に感ぜられた。
「あら、まあー!」と兼子は或る時叫んだ。彼女は坐ってる依子のエプロンをめくっていた。依子は小さな足できちんと胡坐《あぐら》をかいていた。「この子は胡坐をかいて坐っていますよ」
 依子は兼子の顔を見、それから彼の顔を見ていたが、つと立ち上って室の隅っこに逃げてゆき、くるりと向うを向いたまま、いつまでもじっと佇んでいた。兼子はそれを抱いてきた。
「極り塞がってるのね。胡坐をかいてもよござんすよ。可愛いあんよね」と兼子は云った。「さあお坐りしてごらんなさい。」
 依子は両膝をきちんと揃えて坐った。いつまでも黙っていた。しまいには身体を揺り初めた。
「どうしたの、おしっこなの?」と兼子は尋ねた。
 兼子はその手を取って立たせようとした。依子は漸く立ち上った。立ち上るとすぐにばたりと倒れた。そして畳の上を転げながら、足をばたばたやって、大声に泣き出した。誰が何と聞いても、訳も云わずに泣き続けた。しきりに足をばたばたやった。抱き上げると更に激しく身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。放《ほう》って置くより外に仕方がなかった。暫くすると、突然泣き止んだ。余りにそれが突然だったので、皆は呆気にとられてしまった。依子はだしぬけに立ち上って、向うへ逃げていった。
 訳が分らなかった。
「足にしびれがきれたのではないでしょうか。」と幾代は云った。
 兼子は眉を顰めた。
 足にしびれがきれただけならそんなに執拗な筈はない、と彼も考えた。何かあるに違いないと想像された。然し彼は初めからその光景を見ていながら、どうしても理解が出来なかった。彼は依子の後を追っていった。依子は玄関に立って、ぼんやり外を眺めていた。彼は何だか恐ろしい気がした。女中を呼んで負《おぶ》わせてやった。
「お前何か嫌なことをしたのではないか。」と彼は兼子に云った。
「いいえ、何にも」と兼子は答えた。
 彼女が何もしたのでないことは、彼も初めから知って居た。然し……。彼は兼子の様子を見守り初めた。兼子は依子の様子を見守っていた。
 依子に向けられてる彼女の眼は、女性特有の細かな鋭さを具えていた。彼女は依子のあらゆる具体的な特長を一目に見て取った。前髪を掌で後ろになで上げて、いい生際《はえぎわ》だと云った。そして次には、大きな凸額《おでこ》だと云った。「大きなお目《めめ》だこと、」と云いながら、その眼瞼に接吻した。「※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がないのね、なくってもいいわねえ、」と云ってはその短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を二本の指先でつまんで引張った。「大きな短い首!」と云って、後ろから頸を指先でつっついた。依子が首を縮めると、むりにその頸筋へ接吻した。――依子は菓子を一つずつ大人の手から貰うのが嫌いだった。菓子盆ごと貰って、一つ食べては後を自分の手でしまって置きたがった。「この子は慾張りでしまりやだわ、」と兼子は云った。
「お前は批評するからいけないんだ」と彼は兼子へ云った。「こうこうだというだけならいい、然し批評は子供に悪い。」
「だって私、」と兼子は答えた、「批評なんかする気で物を云ったことはありませんわ。」
「それじゃ無意識の批評というのかも知れない。」
 兼子はじっと彼の眼を覗き込んだ。
「そんなにあなた不服なら、御自分で世話をなさるといいわ、私は一切手を出しませんから。」
 嘘をつけ! と彼は心の中で云った。「一切手を出さないと云うのは、一切を自分一人でやろうという反語だ。」……然し彼は争ってもつまらないと思った。自分にもそういう心があると思った。そして穏かに云った。
「一切手を出さないというのは、子供を愛する所以じゃないよ。」
「そんならあなたは私があの子を愛さないとでも思っていらっしゃるの。」
「愛してはいるだろうが……。」
「私一度だって叱ったことがありまして?」
 勿論彼女は一度も依子を叱ったことがなかった。どんなことがあってもただ庇ってばかりいた。
「然し、」と彼は云った、「叱られる方が子供には嬉しいことだってあるだろう。」
「そんなことがあるものですか。私が我慢して叱らないからこそ、あんなになついてるではありませんか。昨晩だってごらんなさいな。」
 昨晩――依子は早く寝た。一人で幾代の室に寝かされていた。すると、三十分ばかりして急に泣き声が聞えた。幾代が茶の間から立っていった。彼女は半身を布団の中に入れて、依子を寝かしつけようとした。然し依子は泣きじゃくりを止めなかった。「お母ちゃん、お母ちゃん!」とくり返した。幾代に呼ばれて兼子はやっていった。彼もついていった。依子は「お母ちゃん。」を云い続けて泣いていた。
「お母様が来ましたよ」と兼子は云った。「もう泣くんじゃありません。さあ、いい児ちゃんですからね。どうしました、え、どうしたの?」
 依子はじっと兼子の顔を見た。そしてただ一言「お母ちゃま。」と云って眼をつぶった。兼子はそれを膝に抱いてやった。上から掻巻をかけて寝かしつけようとした。然し依子は長く眠らなかった。彼が代って抱くと、まじまじと眼を見開いて室の中を眺め廻した。兼子が抱くとすぐに眼を閉じた。然し眠ったのではなかった。兼子は半分布団の中にはいって、長い間かかって遂に寝かしつけてしまった。
「寝そびれるといつもこうなんです。」と幾代は云った。「夜中に眼を覚してお母ちゃん、お母ちゃん、と云って困ることがよくありますよ。よっぽどあなたを起しに行こうかと思っていますと、いつのまにか眠ってしまうんですよ。」
 兼子と一緒に寝かした方がいいかも知れないと彼は思った。然し幾代はやはり自分が抱いて寝ると主張した。彼女は昼間依子と遊ぶのよりも、夜一緒に寝るのを楽しみにしていた。そして実際、依子の機嫌を取りつつ遊ばせるのは、彼女にとっては余りに気骨の折れることだった。彼女はせめて夜だけは孫を占領しようとしていた。
「余り困ったら起しに行きますから。」と彼女は云った。「それにしても、ほんとうによくあなたになついたものですね。
 それが思い違いだったのだ! 彼は事の真実を発見した時、一種の驚きと恐れとを感じた。
 風のない静かな薄暮の頃だった。依子の姿がふと見えなくなった。方々の室を深し二階まで覗いてみたけれど、依子は居なかった。先刻までおとなしく遊んでいたというので、なお不安に思われた。皆は家の内外《うちそと》を探し廻った。すると一人の女中が彼女を見つけ出した。彼女は庭の隅にぼんやり立っていたそうである。女中が駈けてゆくと、「お母ちゃん!」と叫んで、なかなか家へはいろうとしなかった。そして遂に連れて来られると、ただまじまじと兼子の顔を眺めていた。
 そういうことがよくあった。どうかすると縁側に立って、「お母ちゃん。」と口走ることさえあった。兼子が行くとその顔をじっと見てから、「お母ちゃま、お母ちゃまね、」と云った。
「お母ちゃん[#「お母ちゃん」に傍点]」と「お母ちゃま[#「お母ちゃま」に傍点]」とは、依子にとってははっきり異った存在であることを、彼は早くも気付いた。一方は敏子のことであり、一方は兼子のことであった。
 彼は依子の心を思いやって、どうしていいか分らなかった。然し彼女がそういう所まで落ち込んでいる以上は、どうにかしてやらなければいけないと思った。またこのことを、兼子へ知らしたものかどうかをも迷った。けれどもこの方は、彼から知らせるまでもなかった。彼女の方でも早くも気付いていた。彼は兼子がこう云ってるのを聞いた。
「これからはお母ちゃんとお呼びなさい、ね。その方がいいでしよう。ちゃま[#「ちゃま」に傍点]というのは云い悪いから、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]とするのよ。ね、いいでしょう。」
 依子は首肯《うなず》いてみせた。けれどもこう答えた。
「いやよ、お母ちゃま[#「ちゃま」に傍点]よ。」
「え、なぜ?」と兼子は依子の顔を覗き込んだ。
「そんなごまかしでは駄目だ」と彼は口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
 兼子は明かに狼狽の色を見せた。
「僕にもよく分っているよ」と彼は云った。
 兼子の幻滅は痛ましかった。彼女は今まで自分が慕われてると思い込んでいただけに、この打撃に会うと、依子の心の凡てを疑い出した。依子の素振りをじっと眺めながら、一人で苛立っていた。むやみに愛撫するかと思うと、邪慳に突き放した。そしてむりにもお母ちゃん[#「お母ちゃん」に傍点]と呼ばせようとした。
 依子は変に几帳面な所があった。組みの玩具が一つ足りないと云っても、大騒ぎをした。何かのはずみに人形の片足が取れると、大声に喚き立てた。
「人形が壊れた、人形が壊れた。直《なお》してお母ちゃま。直してよ、お母ちゃま!」
 それを聞くと兼子はきっとなった。
「勝手にお直しなさい!」と云い放った。
 依子はわっと泣き出した。そして「お父ちゃま、お父ちゃま!」と叫び立てた。襖の影に陰れて、向うの室を走り廻っていた。
「何とかしておやりよ」と彼は兼子へ云った。
「あなたしておやりなすったらいいでしょう。あなたを呼んでるんですもの」と兼子は答えた。
 彼は暫くじっとしていた。「お父ちゃまよう!」と依子は俄に泣き立てた。彼は兼子の方をじろりと見ながら、思い切って立っていった。人形の片足がち切れて転っていた。彼はそれをくっつけてみた。
「これは駄目だ」と彼は云った。「またいいのを買ってきてあげるから、これはお捨てなさい。ねえ、またいいのを買ってきてあげますから。」
「いやよ、いやよ」と依子は泣き叫んだ。
 彼は依子を腕に抱いてやった。室の中をよいよい云って歩いてやった。然し彼女は泣き止まなかった。しまいには彼も苛ら苛らしてきた。其処に投げつけたくなった。それでも我慢して、いろいろ宥めすかしてみた。依子は遂に泣き止んだが、此度は執拗に黙り込んだ。くるりと顔を外向《そむ》けて反り返った。彼は腹が立ってきた。其処に依子を放り出して縁側に出て屈んだ。依子はまたわっと泣き出した。
 兼子が立って来て依子を抱いた。依子はぴたりと泣き止んだ。
「あなたは子供を放り出して、どうなさるんです。」と兼子は彼へ向ってきた。
 彼は黙っていた。こんなことで争ってもつまらないと思った。然しその後で、依子がそっとやって来て、「お父ちゃま。」と甘えた声で云うのを聞いた時、彼は依子が不憫なよりも寧ろ恐ろしくなった。こんなに小さくて人に媚びている! 彼はただじっとその様子を眺めた。
 依子は次第に、「お母ちゃま」という言葉を口にしなくなった。それと同時に、「お母ちゃん」をも口にしなくなった。然しそれは言葉の上だけであった。彼女は前よりも屡々、玄関に飛び出したり庭の隅へつっ立ったりして、ぼんやり眼を見据えてることが多くなった。それがいつも夕方から晩へかけてだった。
 そういうことが余り度重るので、もしやという疑念が彼に萠した。彼は隙《すき》を窺って、依子が玄関につっ立ってる時、いきなり表へ飛び出してみた。然しただ、閑静な通りが向うまで見渡せるだけで、敏子らしい姿にも見当らなかった。
 所が、ある夕方――敏子が依子を連れてきた時のような、今にも雨になりそうな曇り日の、風もない妙に湿っぽい夕方だったが――兼子は、表に敏子らしい姿を見かけたと云った。彼はぎくりとした。二人ですぐに表へ出てみた。薄暗い通りには何等の人影もなかった。大きな犬がのそりのそり向うから歩いてき
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