垂れていた。兼子がその肩に手をかけていた。
彼は素知らぬ風をして立っていた。暫くすると、皆は庭へ下りてきた。敏子は真直に彼の所へ来て云った。
「依子がどうしても帰しませんものですから……。」
それが彼女が直接自分にかける最後の言葉なのか!……と彼は思った。彼は彼女の顔を見つめた。彼女は頬の筋肉一つ動かさなかった。その厚ぼったい肉の下に、感情は悉く隠れて見えなかった。
「どうかゆっくりなさい。」と彼は云った。
彼女はちらりと彼の眼を見上げて、それから依子の後を追っていった。機嫌を直した依子は、先刻からの麦桿細工の箱を抱えて、幾代と二人で庭の奥へはいり込んでいた。
彼はぼんやり三人の後を見送った。
「あなた!」
ふり向くと、兼子がすぐ眼の前に立っていた。
「なぜあの子を抱こうとなさらないの。まるで他人の子のようですわ。」
彼は何とも答えられなかった。二人は暫く黙っていた。
「僕は変な気がする。」と彼は云った。
「何が?」
「あの子が本当に自分の子だかどうだか分らないような気がする。」
兼子はじっと彼の顔を見た。それから云った。
「あなたによく似てますわ。それに、あんなによくお母様に馴れてるんですもの。」
それは何も理由にはならない、と彼は思った。それでも彼は依子の方へ歩いていった。依子は敏子と幾代とに代る交る縋りつきながら、綺麗な松葉を拾っては箱の中に入れていた。房々と垂れた髪の下に、曇りない広い額が半ば隠されていた。大きな眼玉が溌溂と動いていた。先だけがぽつりと高い団子鼻が、豊かな頬の間に狭まれていた。口がわりに大きく、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が短かかった。――これが俺に似てるのか、と彼は考えた。抱いてみようという気も起らなかった。皆を其処に残して、ふいと家の中へはいっていった。
然し書斎に坐ってみると、どうしてもじっと落付けなかった。彼はまた階下の縁側へ出て来た。それからまた二階に上った。また縁側に出て来た。しまいには其処へ腰掛けて、足をぶらぶらさしながら、しいて空嘯いてみた。
夕食間際に瀬戸の伯父がやって来た。
「一寸廻る所があって大変後れてしまった。……やあ来てるな。機嫌はどうだい?」
瀬戸はそんなことを一人で云いながら、依子を抱いてきて、彼の腕に渡した。彼は黙って受取った。依子は振り向いて敏子の方を見たが、それから彼の顔をじっと眺めた。いつのまにかべそをかいていた。妙に口を大きく引きつらして、今にも泣きだしそうになった。
「いけない、いけない。」と瀬戸は云った。「抱き様が悪いんだ。……まあゆっくり馴れるさ。」
依子は瀬戸の手で抱き取られた。彼の腕にはただ、柔かくてずっしりとした重みの感じだけが残った。
卑怯者! と彼は自ら自分に浴せかけた。夕食の膳に向うと、瀬戸の相手になって無理に杯の数を重ねた。
「あなた、そんなに召上ってもお宜しいですか。」と兼子が云った。
「いいさ、」と瀬戸が引取って答えた、「芽出度い日なんだからね。」
然し芽出度いという感じは、一坐の何処にも現われていなかった。それはただ妙にしんみりとした――それでいてごたごたした――晩餐だった。敏子は固より幾代まで、自分が食べるのをうち忘れて、依子の面倒をみてやっていた。依子は促される度に小さく口を開きながら、自分では食べようともせずに、食卓の上に並んでるいろんな皿を、珍らしそうに眺めていた。多くの皿は手がつけられないで残っていた。敏子も幾代も兼子も、ごく少ししか食べなかった。ただ瀬戸と彼とだけがやたらに食べた。彼は片手に杯を持ちながら、危うげに箸を掴んでる依子の小さな手附を、しきりに眺めていた。眼の底が熱くなってきた。皆が箸を置かないうちに、彼は一人ぷいと立ち上った。
足がふらふらして頭がかっと熱《ほて》っていた。煙草に火をつけながら、庭の中を歩き廻った。空は一面に曇ってるらしく、星の光りも見えなかった。湿っぽい冷かな空気が何処からともなく流れてきて、今にも雨になるかと思われた。彼は俄に真黒な木立に慴えて、それでもなるべく薄暗い隅を選んで、縁側に腰掛けた。じっとしていると、わけもなく涙が出て来た。それを自ら押し隠すようにして、背中の柱に軽く頭をこつこつやった。頭の動きが一人でに強くなっていった。しまいには、軽い眩暈を覚えた。然し柱の角にぶっつける痛みは、頭の皮膚に少しも感じなかった。
食後皆は向うの室で何をしてるのだろう? そんなことが夢のように気にかかった。そして自分一人が仲間外れの不用な人間のように思われてきた。そうだ、皆はこの自分が同席しない時の方が気楽なのだ。勝手にするがいい!……それでも彼は何かしら待っていた。誰かが、皆が、自分を探しに来てくれるのを。
瀬戸が彼を探しに来た。そして彼の肩に手を置いて云った。
「実は、私《わし》は敏子を連れ戻すために来たんだが……その手筈だったんだが、あの模様ではね。……まあ今晩一晩だけ泊《と》めてやったらいいだろう。幾代も兼子もそう云ってるんだから、お前もそのつもりでね。」
「いいようにして下さい。」と彼は冷かに云った。
瀬戸が帰ってゆくことは分かっていたけれど、彼は玄関まで見送りもしなかった。機械的に立ち上った足で、庭の中をまた歩いていると、向うの室に敏子の姿を見かけた。彼は一寸眼を見据えた。それからつかつかとはいって行った。
敏子は膝の上に子供を抱いて室の偶にしょんぼり坐っていた。彼の方をちらりと見上げて、また眼を伏せてしまった。彼ははいって来た縁側の障子を閉めた。閉め切ると、自らはっとした。電気の光りに輝らされてる四角な室、隅っこに顔を伏せている彼女、入口を塞いでつっ立っている自分、その光景が宛も、桂の中の野獣とその餌食とのように頭に映じた。……彼はまた障子を開いた。そして、その敷居際に腰を下した。
「寒くはないですか。」と彼は云った。
「いいえ。」と敏子は答えた。
彼は向うの言葉を待った。然し敏子は俯向いたまま何とも云い出さなかった。彼は心の中で言葉を探した。適当な言葉が見つからなかった。然し躊躇してるのはなお苦しかった。口から出まかせに云った。
「いろいろ苦労をかけて済みません。」
「いいえ。」と彼女は云った。落付いた調子だった。「私はこの子のために、ほんとに仕合せなことと思っております。」
そんなことを云ってるのではない、と彼は心の中で叫んだ。然しどう云い現わしていいか分らなかった。
「考えてみると、僕は何だか恐ろしい気がするけれど……。」
「私は安心しております。お祖母様もお……母様も、ほんとに御親切ですから。」
「僕もどんなに苦しんだか知れない。然し僕の意志ではどうにもならなかったので……。」
「いいえ、こうして頂けば、私は本望でございますもの。」
「随分苦しんだでしょう。」
「いえ、まだ何にも分かりませんから。」
そう云って彼女は子供の頭に頬を押しあてた。
彼は口を噤んだ。彼が彼女のことを云っているのに、彼女は故意にかまたは知らずにか、子供のことばかりを云っていた。彼は苛ら苛らして来た。少し露骨すぎる嫌な言葉だと意識しながら、ぶしつけに云ってやった。
「僕達二人のことは、もう何とも思ってはいないんですか。」
敏子は黙って彼の顔を見た。彼はその眼の中を覗き込んだ。然し何の意味をも読み取れなかった。彼は眼を外らして、庭の方を眺めながら、大きく溜息をついた。
「僕は依子を心から愛してやろう。」と彼は独語のように云った――そしてそれは実際独語だった。
すると俄に、此度は彼女の方から追っかけてくるのを、彼は感じた。冷かな清徹さに満ちながら曇ってる彼女の眼の光りは、急に、中に濁りを含んだ清らかさになった。彼はそういう眼の光りをよく知っていた。あの当時、彼女の清く澄んだ眼の中に現われてくる、その熱っぽい濁りを、彼は幾度も見て慴えたのであった。……彼は不安な気持ちになった。無理にしめくくられたような皺のある厚い唇、太く逞しい頸筋から上膊、厚ぼったい胴、皮膚がたるんでるような肌目の荒い肉体、それらが誘惑しかけてくるのを感じた。彼は我知らず身体を少し乗り出そうとした。するとその瞬間に彼女の眼はまた冷かに澄んだ曇りに返った。その曇りの底には、もはや何物も見て取れなかった。曇りながら冷たく澄みきってるのみだった。
彼は我に返って、心のやり場に困った。一瞬間前の自分が恥しくなった。そして、幾代と兼子とがいつまでも出て来ないのが、俄に気になりだした。罠を張られたのではないかという気がした。
彼は黙って立ち上った。障子をしめた。何とか云いたかったが、言葉が見つからなかった。敏子は子供を抱きながら軽く身を揺っていた。
「みんな何処へ行ったのかしら?」と彼は平気を装って云った。
座敷を出て茶の間を通り、玄関の方を覗いてみると、其処に幾代と兼子とが立っていた。
「どうしたんです?」と彼は怒鳴るように云った。
「一寸困ったことが出来ましてね。」と幾代は云った。彼女の云う所に依ると、昨日永井が瀬戸の家へ来て、約束の千五百円を求めた。瀬戸は一先ず五百円だけを与えて逐い帰した。然しこの金は直接敏子へ渡すべきだというので、今日残額の現金を持ってきて、幾代の手に托していったそうである。「それでも、」と彼女は云い続けた、「私から今すぐお敏へ渡すのも、あまり当てつけがましくってね。兼子さんとも相談していた所ですが、あなたはどう思います?」
「そんなことは出来るもんですか!」と彼は云った。
「そうでしょうね。兼子さんは、後で、お敏は明日《あした》の朝帰しますから、その後で届けたらと云っていますが、そうしましょうか。」
「それでいいでしょう。」
彼は投げ出すように云い捨てた。早くそんな話は切り上げたかった。嫌な気がした。二人が座敷の方へ行くのを見送って、役は暫く佇んでいた。それから二階へ上った。
話の底にはまだ自分の知らない、嫌な事物や手筈やが潜んでるように、彼には考えられた。そして、自身がなきけなくなった。あの時もそうだったが、此度のことでも、彼の意志は殆んど何等の働きをもしなかった。彼がただ一人で考え込んでるうちに、外部からすらすらと事は運んでいった。そして彼はただその後についてゆくの外はなかった。なぜか? と彼は反問してみた。然し答えは得られなかった。……彼は長い間机につっ伏していた。そうだ俺はただ依子を愛してやろう、そう最後に考えた。依子の小さな姿が眼の前に浮んだ。今どうしているだろうかとしきりに気に懸った。階下《した》へ下りて行きたいのを我慢した。縁側の雨戸を閉める音が聞えた。終には堪えられなくなって、階段を下りていった。
依子は敏子の膝の上で、もう眠りかけていた。合さりがちな眼瞼をうっとりと開いて、はいって来た彼の顔を見上げた。淡い安らかな視線だった。然し彼はその頭を撫でてやろうという気も起らなかった。離れているとあんなに気に懸ったのが、眼の前にその姿を見ると、もう手を出す気も起らなかった。触るのが憚られるようだった。彼は自ら変な気持ちになった。その気持ちを掘り進んでゆくと、敏子へ余り拘泥しすぎてることに気付いた。……彼は敏子の顔を眺めた。敏子は落ち付き払って、それでも遠慮がちに、幾代や兼子と短い言葉を交わしていた。
「では、もう寝《やす》んだら宜しいでしょう。依子が眠そうだから。」と幾代はやがて云った。
「はい。」と敏子は答えた。そして子供の上に屈み込んで云った。「寝んねしましょうね。」
奥の六畳に床が敷いてあった。
皆が立って行った後に、彼は一人腕を組んで坐っていた。やがて縁側の雨戸を一枚開いて、庭へ下りていった。冷たい夜の空気が額を撫でた。空を仰ぐと細かな糠雨が、殆んど分らない位に少し落ちていた。植込みの影が魔物のように蹲っていた。何処からか射してくる淡い光りに、楓の若葉がほんのりと見えていた。彼は吸いさしの煙草をやけに地面へ叩きつけた。訳の分らない不満が心の中に澱んでいた。長い間歩き廻った後、彼はいつのまにか奥の六畳へ忍び寄っていた。
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