れた泥は依子を愛することによって償われる! 俺は二重に依子を愛してやろう、と彼は心に誓った。
夕食後、彼は瀬戸を送って表に出た。肥った筋肉を狭すぎるような皮膚に包んだ瀬戸の身体は、酒のためになお張り切って見えた。地面に転ったらぽんとはね返りそうに思われた。棒のような足でことこと歩きながら、彼の方を顧みた。
「これですっかりよくなったというものだ。女も時には素敵なことを考えつくものだね。」
「え?」と彼は問い返した。意味がよく分らなかった。
「然しこれからが大事だね。」と瀬戸は構わず云い続けた。「永井でなくても、へまするとお前は誤解され易いよ。」
「永井が何と云ったんです!」
瀬戸は他のことを尋ねた。
「お前は依子を引取ることを、大変急いでるというじゃないか。」
「ええ。変な風に話がこじれるといけませんから……。」
「然し案外だったろう、余りすらすらと運びすぎて。」
彼は返辞に迷って、何とも答えなかった。瀬戸もそれきり黙った。暫く行って坂を下りつくすと、瀬戸は俄に立ち止った。
「送ってくるのなら、もういいよ。それに、今晩は家でゆっくりした方がいいだろう。」
そう云いながら瀬戸は、中々歩き出そうとしなかった。彼も仕方なしに立っていた。やがて瀬戸はこう云った。
「やはりお前に云って置いた方がいいだろう。実はね、永井の奴変なことを云いだしたものだから、私《わし》は怒鳴りつけてやったのさ。奥様に児種がおありにならないとしますれば、敏子もどうせ生涯独身を続けると云っていますから、お側に仕えさしても……。」
「僕の妾に、というんですか。」
「まあそうだね。だから、今後永井も敏子も近づけてはいけないね。勿論敏子は何も知らないのだろう。早く云えば、永井の喰い物になってるんだね。」
彼は瀬戸の顔を眺めた。街灯の薄暗い光を受けてるその顔は、笑ってるように見えた。
「伯父さん、揶揄《からか》ってるんですか。」と彼は云った。
「ははは、」と瀬戸は笑い出した。「揶揄《からか》われたと思うような心なら、まず安心だよ。然しね、兼子にそんな疑を起させないようにしなければいけない。。それが一番大切なことだ。」
「兼子は僕を信じています。」
「それはそうだろう、夫婦の間だからね。……まあ兎に角、二人で円満にあの子を可愛がるんだね。」
彼は瀬戸と別れてからも、暫く其処にぼんやり立っていた。謎をでも投げつけられたような心地がした。馬鹿々々しかった、さりとて笑えもしなかった。彼は頭を振った。俺は敏子のことは何とも思ってはしない。あの時だって真面目な心の動きはなかったのだ、そう自ら云ってみた。然し……その「然し」から先を彼は無理に頭の外へ逐いやった。
家へ帰ると、彼は兼子の顔にじっと眼を据えた。兼子は彼の方へ寄り添って来た。そして彼の手を執りながら、「あなた!」と一言云った。
これですっかりいいのだ! と彼は考えた。その晩はいつもよりなおよく眠れたような気がした。朝起きると空が綺麗に晴れていた。それを眺めていると、涙ぐましい心地になった。依子、依子! そう心にくり返すことが嬉しかった。それは瀬戸の伯父がつけてくれた名前だった。
家の中には急に種々なものが増《ふ》えてきた。幾代と兼子との夢想は実現されていった。兼子の身体も肥ってきたようだった。彼女の膝の前には、美しい友禅模様の布が並んだ。彼女と幾代とは、新しい玩具をいじっては微笑んでいた。彼も時々その仲間にはいった。幾代は二度ばかり三田へ行った。その度毎にいい子だとほめていた。
それでも、影のような不安が、彼の心をふと掠めることがあった。凡ては未解決のまま単に通り越されたのみだった。兼子の病気と手術と不妊との問題、依子の運命の問題、彼と兼子と依子と敏子との今後の心的交渉の問題、それらが表面上は解決された形になりながらも、彼の心のうちでは少しも解決されたのではなかった。ただ次から次へと移り変っていったのみだった。と云って、それは解決される問題でもなかった。凡ては未来に懸っていた。それを考えると彼は、現在の立場が悉く幻ではないかというような、はかない不安な気持ちになった。それならばどうしたらいいのか? どうといって仕様はなかった。ただ未来を信じて進むのだ。思い切って凡てにぶつかってゆくのだ。
そしてぶつかる日は早く来た。
未明に少し雨が降った薄曇りの日だった。彼は二階の縁側に立って、庭の隅の薄赤いものをぼんやり見ていた。乙女椿の花だということに自ら気付いたのは、暫くたってからであった。彼は眼鏡をかけるのを忘れていた。慌てて眼鏡を取って来て、また椿の花を見直した。――其の日の午後、依子は家へ連れられてきた。
兼子は、敏子自身で依子を連れてきてほしいと希望した。敏子は、そんな厚かましいことは出来ないと云った。然し、依子は殆んど母親と一緒にしか外出したことがなかった。それで兎に角、敏子は女中代りの内弟子を留守に頼んで、ついて来ることになっていた。幾代が迎えに行った。三人は自動車でやって来た。
彼は昼食を済すとすぐに、散歩に出かけた。女達ばかりに任した方がいいと思った。敏子に一度逢いたくもありたが、今は逢わない方がいいと思った。夕方帰るつもりだった。街路をぶらぶら歩いてると、薄ら寒い頼りない気持ちになった。然し友人の家に行きたくもなかった。瀬戸の伯父を訪ねたくもなかった。知人の顔は一切見たくなかった。ふと思いついて植物園へはいった。桜の下や池の縁の人群れを避けて、高地植物試作場附近の、木立の奥のベンチに坐った。
湿気を含んだ冷かな微風が低地から匐い上ってきた。朽葉の匂いにほのかな甘酸い匂いが交っていた。細かなものがはらはらと落ちてくるような気配《けはい》に、ふと顔を上げて見ると、欝蒼たる木立の梢に鮮かな新録が仄見えていた。都会のどよめきが遠く伝わってくる……。彼は何物にとなくぼんやり耳を傾けて、自分自身を忘れたような心地になった。寂寞の境地に人を避けて、子供のことを心の奥に想っている、こういう自分の姿が、昔……遠い昔にも、あったような気がした。それは自分ではない、父でも祖父でもない。それでもやはり自分なのである。そして、子供のことを考えるのは、遠い祖先のことを考えるのと同じだった。一種神秘な血の繋りだ!……彼は涙ぐましい心地になって、膝頭の上に頭をかかえていた。
晴れやかな笑い声に、彼は喫驚して飛び上った。四五人の女学生が彼の後ろを通っていった。彼はぼんやりつっ立っていたが、彼女等の後姿を見送ると、自分の来るべき場所ではなかったような、外国人といったような、淋しい心持ちになった。やはり家に帰ろう、そう彼は自ら云った。
彼が家に歸ったのは四時過ぎだった。玄関に並べられてる下駄で、敏子がまだ居ることを知った。変にぎくりとした。立ち止って一寸躊躇したが、また思い切ってつかつかと上っていった。
皆は何処に居るのかと彼は女中に尋ねた。母の居間にとの答えだった。彼は階段の下に佇んで、母の居間へ行こうか書斎へ上ろうかと迷った。そこへ兼子が出て来た。
「まあ今まで、あなたは何処へ行っていらしたの!」と彼女は云った。
彼は黙って彼女の顔を見返した。彼女の顔には晴々とした冷かさがあった。彼はそれを美しいと思った。崇むべき美しさだと思った。変な気持ちになった。
こちらよ、と彼女は素振りで云った。
そう、と彼は眼で答えた。
彼はつとはいっていった。幾代の視線を受けて、彼は額が汗ばむのを感じた。すぐ其処へ坐った。見ると、向うに居る一人の女からお辞儀をされていた。彼も黙ってお辞儀をした。
「この女《ひと》が……。」幾代はいい出して、急に口を噤んだ。彼女は彼に敏子を紹介でもするつもりらしかった。その間《ま》の悪さを自らまぎらすためかのように、彼女は子供の方を向いて、慌てて云い続けた。「これがあなたのお父様ですよ。さあ抱っこしてお貰いなさい。ほんとにね、長い間……。」
彼女はまた口を噤んだ。そしてじっと子供を膝に引寄せていた。
彼はただ、額ににじみ出てくる汗を我慢することに、全力をつくした。やがて眼がはっきりしてきた。幾代の膝に半ば身体をもたして、顔を伏せてる小さな子を、彼は見た。細かな柔かな髪の毛と円っぽい手の爪とが、はっきり眼の底に残った。彼は立ち上ろうとした。その時、子供を見守ってる敏子の眼を感じて、また坐り直した。敏子の方へ顔を向けることが憚られた。執拗に子供を見守ってる彼女の眼が、眼には見ないでもそれと感ぜられるその眼が、一種の威圧を彼の上に及ぼしてきた。彼は睥むように瞳を上目がちに見据えて、子供の前に沢山散らかってる玩具を、一つ一つ眺めやった。一本の糸に繋がれてる大きな兎と亀とがあった。畳の上に平べったくなってる亀の姿が、殊にそのふらふらの長い首が、変に気味悪く思われた。立ち上ってそいつを蹴飛したいような気になった。じりじりしてきた。
「さあ、お父様に抱っこしてごらんなさい。」と幾代は云っていた。
「ほんとにはにかみやさんですね、先刻《さっき》まであんなに元気だったのに……。尤も、はにかむ位の子供の方が、頭がよいと云いますが……。」
子供は幾代の影から、そっと頭を上げて、彼の方を覗いた。そしてつと立ち上って、敏子の膝へ飛びついた。片手にしっかり麦桿細工の箱を持っていた。
「まあ、どうしたのです、慌てて……。」と敏子は云った。
彼は眼を外らした。咄嗟の一瞥で、眼の大きな※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の短い子だということが、見て取られた。それが醜いもののように思われた。
兼子がはいって来た。彼女は一座をちらりと見廻して、すぐ子供の側へ寄っていった。
「こちらへいらっしゃい。抱っこしてあげましょう。ねえ、お父様も帰っていらしたでしょう。ねえ、いい児ちゃんですね。」
然し彼女が覗き込めば覗き込むほど、子供は益々深く母親の胸に顔を埋めた。
「どうしました、え? 先刻《さっき》はあんなに馴れっこになってたのに……。困りますね。」と兼子は云いながら、没表情な微笑を浮べた。
彼はその方を見やった。そして、子供の上に屈みこんでる敏子の横顔を見た。皮膚のたるんでるような頬、きっとしまった厚い唇、太い首、眉の横の黒子《ほくろ》、……凡てよく見覚えのあるものばかりだった。彼は落付いた気持ちでそれらを眺めた。兼子が来てから敏子の方を平気で眺められるようになった自分の心持ちの変化を、不思議なほどぴたりと感じた。またそう感ずることで、心が落付いた。ぼんやり視線を注いでいると、ふと敏子の耳が眼に止った。後ろにかきあげた揉上《もみあげ》の毛に半ば隠れ、幾筋もの曲線をうねらし、耳垂《みみたぼ》がしゃくれっ気味に締れ上っていた。彼は珍らしい物を見るような気がした。それは記憶の中の彼女とは、全く没交渉なものだった。余りにしげしげと見てはいけない醜い発見物のようにさえ思われた。
彼が眼を外らすと、彼の方をじっと見てる兼子の眼に出会った。兼子は視線を外らさなかった。澄みきった黒い冷かな瞳が、彼の眼を吸い取ろうとしていた。彼はその瞳に眼を定めたまま、彼女の顔全体を見て取った。細やかな薄い皮膚、たるみのない痩せ形な頬、すっと高い鼻、薄い唇から覗いてる真白い歯――彼は彼女の美貌に喫驚した。彼は今迄そういう風に彼女を眺めたことがなかった。……彼は眼を外らして、敏子の横顔をまた眺めた。肌目の荒い肉が白粉に包まれていた。ふふんと鼻で笑いたいような気が、彼のうちに起った。それを自ら気付くと、変に息苦しい所へ心が落込んでいった。彼は我知らず立ち上りかけた。そして咄嗟に誰へともなく云った。
「庭の方へ出ませんか。」
彼は立ち上って障子を開け、縁側から庭へ下りていった。庭の真中に立って深く息を吸い込んだ。いい気持だった。何もかも、依子も、なるようになるがいいや、そういう気がした。
「いやよ、いやよ、お母ちゃん、いやよ!」と泣き叫ぶ声がした。ふり返ってみると、依子が敏子の胸に縋りついていた。幾代が何か云っていた。敏子はじっと首を
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