た。二人はその犬が通りすぎるまで佇んでいた。それから家の中にはいった。
「余り神経をやんではいけない。」と彼は云った。「お前までがそんな風になると、なお依子がいけなくなるばかりだ。」
「でもたしかに変ですよ。」と兼子は答えた。「実はこないだ、庭に誰か立っているようなので、喫驚してなおよく見ると、それが椿の木だったりしたこともありますが、それにしても、あの子の様子が余りおかしいんですもの。ひょっとすると、子供に逢いたさの余り、家の前をぶらついたりなんかなすってるのではないでしょうか。それならそうと云って、家へ来て下さればいいのに。」
「お前までそんなことを云うからいけないんだ。」と彼は云った。
 然し彼自身も少からず神経を悩まされた。敏子のことはそうだとは思えなかったが、一種の神秘なあり得べからざることが、却ってありそうに思えてきた。馬鹿な、そんなことが! と自ら云って見たけれど、今にも更に悪いことが起りそうな気がした。
 そして実際、依子の様子は益々いけなくなっていった。それにつれて兼子も益々苛立ってきた。彼女は打ちこそしなかったが、それよりも更に悪い冷たさを以て、依子に対するようになった。その合間々々には熱狂的な愛撫を示した。依子はこの冷熱の間に苦しめられて、彼や幾代の方へ逃げていった。兼子はそれをまた抱き取ってきた。胸にひしと抱きしめながら云った。
「依子ちゃんは誰が一番お好き? え、誰が一番お好きですか。」
 依子は黙っていた。
「云ってごらんなさい。え、誰が一番お好き?」
「一番お好きよ、一番お好きよ」と依子は口早に云って、兼子の懐にしがみついた。
「そう、お母ちゃんも依子ちゃんが一番お好き!」
 そう云って彼女は依子を更に強く抱きしめた。依子は急に身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。真赤な顔をして反りくり返った。兼子はなかなか放さなかった。依子はしまいに泣き出した。
「余りしつっこくするものじゃないよ」と彼は云って、依子を抱き取ろうとした。
「いやよ、いやよ、いやよ!」と依子は叫んだ。「お父ちゃま嫌い、嫌いよ!」
 依子は泣きながら逃げていった。兼子は冷かな眼でその後を見送った。
 こんな風ではだんだんいけなくなるばかりだ、と彼は思った。一層のこと幾代へ依子を凡て任せたら……とも思った。然し幾代は、既に夜の間だけでも可なり苦しめられてい
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