子を奪う
豊島与志雄
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(例)早速|手土産《てみやげ》
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兎に角、母が一人で行ってくれたのが、彼には嬉しかった。普通なら、いつも間にはいって面倒をみてる伯父が、当然その役目をすべきだが、「女は女同志の方が話がしよいから、」と幾代は主張した。そして伯父を同伴することさえ拒んだ。「では行ってきますよ、」と彼女は云いながら、重大な用件で小石川の奥から三田まで俥を走らせるのに、宛も日常の用足しででもあるかのように、落付き払って家を出た。
母は安心しきってるようだ、と彼は考えた。然し、もしも向うで子供を渡さないといったら……。
彼は眉根をしかめた。ふと空を仰いでみた。晴れ渡った空が一杯日の光りを含んでいた。彼は一寸口笛を吹いた。それから妻の所へ行ってみた。
兼子の弱々しい繊細な顔には、かすかに興奮の赤味があった。彼女は良人の姿を見ると、無理強いの微笑を浮べた。
「これでお前も安心したろう?」と彼は冗談の調子で云った。然しその言葉をいい終えないうちに、心と反対のことを口にしているのを感じた。その言葉が当てつけがましい皮肉のように、我ながら思われた。それでも兼子の答えは素直だった。
「でも、向うの返事を聞きませんうちは……。」
「兼子、」と彼は云った、「しつっこいようだが、僕は今になってもまだ不安で仕方がない。もしあの子が本当に家へ来たら、お前は心から愛することが出来るかしら?」
「出来ますわ。」
「然し……少しひどい言葉だが、兎に角、僕と他《ほか》の女との子だということは、忘れられはしないよ。」
「そういう子があることは、結婚の時にあなたから仰言ったではありませんか。私はその当時からもう何とも思ってはいませんわ。それは昔のことですもの。昔のことはどうだっていいと、あなたも……。」
「いや、どうだっていいというのは、過去のうちに埋めてしまえるからだ。現在の生活の外へおっぽり出してしまえるからだ。所があの子が家へ来ることは、そういう過去が現在のうちへ顔を出すことになるか
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