らね。」
 兼子は頭を支えかねるかと思えるような細い首を、きっと真直に伸して、彼の顔を見ながら云った。
「では、あなたは今でもその女の人を愛していらっしゃるの?」
「いや。」
「それさえなければ、私はあの子を、あなたの子だから猶更愛せられるように思えますわ。」
 後は口を噤んだ。いくら云い合った所で、前から何度もこね返した問題をくり返すに過ぎなかった。そして常に一の疑問が最後まで残るのであった。兼子は誤った感傷に囚われてるのではないか? ということ。感傷が単に感傷として止まる間はまだよい。然しそれが生活の方向を指定するまでに、厳たる存在を取る時には……。
 最後に木村博士の診断を受けた時、彼女は凡てに気兼ねでもするように、表の格子をそっと開き足音を竊んで、伏目がちに家へ帰ってきたのだった。やはり一種の病気だそうだというような事を、ごく簡単に答えたきり、幾代や彼の問いを明かに煩さがっていた。黙って考え込んでいる彼女の姿を、彼は幾度も茶の間に見かけた。
「そうしてると、お前の首はいつもよりなお細って見えるよ。」と彼は云った。然し、顔色がいつもよりなお蒼く見えるということは、口へは出さなかった。
「あらそう?」と彼女は答えて頭をもたげながら彼の方を見上げた。その眼には夢見るような柔かい濡いがあった。
 彼は安心した。然しその晩に、彼女の眼は熱い黝《くろ》ずんだ光を帯びた。そして木村博士の診断を良人と母とに残らずうち明けた。平素身体が比較的弱いのは、やはり子宮の内膜の病気が原因だった。その病気は、うっちゃっておいても別段差支えないとのことだった。そして手術すれば全愈する可能が多いし、手術しなければ不妊の可能が多いけれど、終局何れも可能に止まるとのことだった。――全愈の見込が確かでない手術なんかはしない方がいい、ということに皆の意見は一致した。大して差支えのない病気なら、身体を強くする方法は他にありそうだった。
 何でもないことだ、と彼は思った。然し幾代と兼子とにとってはそうではなさそうだった。その晩兼子は長く眠れないでいるらしかった。夜中に彼はふと眼を覚した。兼子が声低く彼を呼んでいた。彼は大きく開いた眼で意味を尋ねた。彼女は云った。
「私、やはり手術をして貰いましょうか。」
「それもいいね。」と彼は答えた。「何なら僕がなお木村博士に相談してみようか。」
 彼女は何とも云わ
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