。
「あなたしておやりなすったらいいでしょう。あなたを呼んでるんですもの」と兼子は答えた。
彼は暫くじっとしていた。「お父ちゃまよう!」と依子は俄に泣き立てた。彼は兼子の方をじろりと見ながら、思い切って立っていった。人形の片足がち切れて転っていた。彼はそれをくっつけてみた。
「これは駄目だ」と彼は云った。「またいいのを買ってきてあげるから、これはお捨てなさい。ねえ、またいいのを買ってきてあげますから。」
「いやよ、いやよ」と依子は泣き叫んだ。
彼は依子を腕に抱いてやった。室の中をよいよい云って歩いてやった。然し彼女は泣き止まなかった。しまいには彼も苛ら苛らしてきた。其処に投げつけたくなった。それでも我慢して、いろいろ宥めすかしてみた。依子は遂に泣き止んだが、此度は執拗に黙り込んだ。くるりと顔を外向《そむ》けて反り返った。彼は腹が立ってきた。其処に依子を放り出して縁側に出て屈んだ。依子はまたわっと泣き出した。
兼子が立って来て依子を抱いた。依子はぴたりと泣き止んだ。
「あなたは子供を放り出して、どうなさるんです。」と兼子は彼へ向ってきた。
彼は黙っていた。こんなことで争ってもつまらないと思った。然しその後で、依子がそっとやって来て、「お父ちゃま。」と甘えた声で云うのを聞いた時、彼は依子が不憫なよりも寧ろ恐ろしくなった。こんなに小さくて人に媚びている! 彼はただじっとその様子を眺めた。
依子は次第に、「お母ちゃま」という言葉を口にしなくなった。それと同時に、「お母ちゃん」をも口にしなくなった。然しそれは言葉の上だけであった。彼女は前よりも屡々、玄関に飛び出したり庭の隅へつっ立ったりして、ぼんやり眼を見据えてることが多くなった。それがいつも夕方から晩へかけてだった。
そういうことが余り度重るので、もしやという疑念が彼に萠した。彼は隙《すき》を窺って、依子が玄関につっ立ってる時、いきなり表へ飛び出してみた。然しただ、閑静な通りが向うまで見渡せるだけで、敏子らしい姿にも見当らなかった。
所が、ある夕方――敏子が依子を連れてきた時のような、今にも雨になりそうな曇り日の、風もない妙に湿っぽい夕方だったが――兼子は、表に敏子らしい姿を見かけたと云った。彼はぎくりとした。二人ですぐに表へ出てみた。薄暗い通りには何等の人影もなかった。大きな犬がのそりのそり向うから歩いてき
前へ
次へ
全41ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング