まじまじと兼子の顔を眺めていた。
 そういうことがよくあった。どうかすると縁側に立って、「お母ちゃん。」と口走ることさえあった。兼子が行くとその顔をじっと見てから、「お母ちゃま、お母ちゃまね、」と云った。
「お母ちゃん[#「お母ちゃん」に傍点]」と「お母ちゃま[#「お母ちゃま」に傍点]」とは、依子にとってははっきり異った存在であることを、彼は早くも気付いた。一方は敏子のことであり、一方は兼子のことであった。
 彼は依子の心を思いやって、どうしていいか分らなかった。然し彼女がそういう所まで落ち込んでいる以上は、どうにかしてやらなければいけないと思った。またこのことを、兼子へ知らしたものかどうかをも迷った。けれどもこの方は、彼から知らせるまでもなかった。彼女の方でも早くも気付いていた。彼は兼子がこう云ってるのを聞いた。
「これからはお母ちゃんとお呼びなさい、ね。その方がいいでしよう。ちゃま[#「ちゃま」に傍点]というのは云い悪いから、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]とするのよ。ね、いいでしょう。」
 依子は首肯《うなず》いてみせた。けれどもこう答えた。
「いやよ、お母ちゃま[#「ちゃま」に傍点]よ。」
「え、なぜ?」と兼子は依子の顔を覗き込んだ。
「そんなごまかしでは駄目だ」と彼は口を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ。
 兼子は明かに狼狽の色を見せた。
「僕にもよく分っているよ」と彼は云った。
 兼子の幻滅は痛ましかった。彼女は今まで自分が慕われてると思い込んでいただけに、この打撃に会うと、依子の心の凡てを疑い出した。依子の素振りをじっと眺めながら、一人で苛立っていた。むやみに愛撫するかと思うと、邪慳に突き放した。そしてむりにもお母ちゃん[#「お母ちゃん」に傍点]と呼ばせようとした。
 依子は変に几帳面な所があった。組みの玩具が一つ足りないと云っても、大騒ぎをした。何かのはずみに人形の片足が取れると、大声に喚き立てた。
「人形が壊れた、人形が壊れた。直《なお》してお母ちゃま。直してよ、お母ちゃま!」
 それを聞くと兼子はきっとなった。
「勝手にお直しなさい!」と云い放った。
 依子はわっと泣き出した。そして「お父ちゃま、お父ちゃま!」と叫び立てた。襖の影に陰れて、向うの室を走り廻っていた。
「何とかしておやりよ」と彼は兼子へ云った
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