。」
昨晩――依子は早く寝た。一人で幾代の室に寝かされていた。すると、三十分ばかりして急に泣き声が聞えた。幾代が茶の間から立っていった。彼女は半身を布団の中に入れて、依子を寝かしつけようとした。然し依子は泣きじゃくりを止めなかった。「お母ちゃん、お母ちゃん!」とくり返した。幾代に呼ばれて兼子はやっていった。彼もついていった。依子は「お母ちゃん。」を云い続けて泣いていた。
「お母様が来ましたよ」と兼子は云った。「もう泣くんじゃありません。さあ、いい児ちゃんですからね。どうしました、え、どうしたの?」
依子はじっと兼子の顔を見た。そしてただ一言「お母ちゃま。」と云って眼をつぶった。兼子はそれを膝に抱いてやった。上から掻巻をかけて寝かしつけようとした。然し依子は長く眠らなかった。彼が代って抱くと、まじまじと眼を見開いて室の中を眺め廻した。兼子が抱くとすぐに眼を閉じた。然し眠ったのではなかった。兼子は半分布団の中にはいって、長い間かかって遂に寝かしつけてしまった。
「寝そびれるといつもこうなんです。」と幾代は云った。「夜中に眼を覚してお母ちゃん、お母ちゃん、と云って困ることがよくありますよ。よっぽどあなたを起しに行こうかと思っていますと、いつのまにか眠ってしまうんですよ。」
兼子と一緒に寝かした方がいいかも知れないと彼は思った。然し幾代はやはり自分が抱いて寝ると主張した。彼女は昼間依子と遊ぶのよりも、夜一緒に寝るのを楽しみにしていた。そして実際、依子の機嫌を取りつつ遊ばせるのは、彼女にとっては余りに気骨の折れることだった。彼女はせめて夜だけは孫を占領しようとしていた。
「余り困ったら起しに行きますから。」と彼女は云った。「それにしても、ほんとうによくあなたになついたものですね。
それが思い違いだったのだ! 彼は事の真実を発見した時、一種の驚きと恐れとを感じた。
風のない静かな薄暮の頃だった。依子の姿がふと見えなくなった。方々の室を深し二階まで覗いてみたけれど、依子は居なかった。先刻までおとなしく遊んでいたというので、なお不安に思われた。皆は家の内外《うちそと》を探し廻った。すると一人の女中が彼女を見つけ出した。彼女は庭の隅にぼんやり立っていたそうである。女中が駈けてゆくと、「お母ちゃん!」と叫んで、なかなか家へはいろうとしなかった。そして遂に連れて来られると、ただ
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