はないか。」と彼は兼子に云った。
「いいえ、何にも」と兼子は答えた。
 彼女が何もしたのでないことは、彼も初めから知って居た。然し……。彼は兼子の様子を見守り初めた。兼子は依子の様子を見守っていた。
 依子に向けられてる彼女の眼は、女性特有の細かな鋭さを具えていた。彼女は依子のあらゆる具体的な特長を一目に見て取った。前髪を掌で後ろになで上げて、いい生際《はえぎわ》だと云った。そして次には、大きな凸額《おでこ》だと云った。「大きなお目《めめ》だこと、」と云いながら、その眼瞼に接吻した。「※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]がないのね、なくってもいいわねえ、」と云ってはその短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]を二本の指先でつまんで引張った。「大きな短い首!」と云って、後ろから頸を指先でつっついた。依子が首を縮めると、むりにその頸筋へ接吻した。――依子は菓子を一つずつ大人の手から貰うのが嫌いだった。菓子盆ごと貰って、一つ食べては後を自分の手でしまって置きたがった。「この子は慾張りでしまりやだわ、」と兼子は云った。
「お前は批評するからいけないんだ」と彼は兼子へ云った。「こうこうだというだけならいい、然し批評は子供に悪い。」
「だって私、」と兼子は答えた、「批評なんかする気で物を云ったことはありませんわ。」
「それじゃ無意識の批評というのかも知れない。」
 兼子はじっと彼の眼を覗き込んだ。
「そんなにあなた不服なら、御自分で世話をなさるといいわ、私は一切手を出しませんから。」
 嘘をつけ! と彼は心の中で云った。「一切手を出さないと云うのは、一切を自分一人でやろうという反語だ。」……然し彼は争ってもつまらないと思った。自分にもそういう心があると思った。そして穏かに云った。
「一切手を出さないというのは、子供を愛する所以じゃないよ。」
「そんならあなたは私があの子を愛さないとでも思っていらっしゃるの。」
「愛してはいるだろうが……。」
「私一度だって叱ったことがありまして?」
 勿論彼女は一度も依子を叱ったことがなかった。どんなことがあってもただ庇ってばかりいた。
「然し、」と彼は云った、「叱られる方が子供には嬉しいことだってあるだろう。」
「そんなことがあるものですか。私が我慢して叱らないからこそ、あんなになついてるではありませんか。昨晩だってごらんなさいな
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