た。然し彼女はそんなことを何にも語らなかった。彼女は少からず憤慨の調子で、金のことを第一に述べた。
「私がお金の包みを出しますとね、お敏は手にも取らないで、これは永井へ渡してくれと申すではありませんか。こちらからわざわざ届けてやった心が、少しも通じないのです。瀬戸さんの考えや私達の思いやりを、くわしく云ってやりましても、お敏は黙って俯向いたきりですもの。私はも少しで持って帰ろうかと思いました。」幾代は暫く言葉を切って、彼と兼子との顔を見比べた。「けれども、そうしないでよござんした。やはり瀬戸さんの仰有る通りでしたよ。とうとう無理に受取らせることにして、この中に千円あるから一応あらためて下さいと云いますと、え千円! と喫驚したような顔をしました。で私は、五百円は瀬戸さんから永井へ渡してあるので、これで丁度お約束の金高だと云ってきかせますと、千五百円! とまた喫驚してるではありませんか。よく聞きますとね、あれは全く永井のたくらみだったのですよ。お敏はただ、これから小さな煙草店でも出すつもりで、四五百円の補助を受ければよいと思っていたそうです。毎月三十円のうちから貯金もだいぶしているらしいのです。そんなに沢山頂いては済みませんと、なかなか受取ろうとしませんでした。瀬戸さんからの五百円だって、まだ永井から貰っていないのですよ。」
その話を聞きながら、彼は別に憤慨をも感じなかった。それ位のことはありそうだと、前から知っていたような落付を覚えた。幾代が今更怒ってるのが、可笑しいほどだった。それよりも彼は、敏子自身のことを、出来るならば依子が居た当時から其後のことを、悉しく聞きたかった。然し幾代は金のことにこだわっていて、最初の時のような話し方をしなかった。彼女は時々、少しずつ、話してきかした。その上、そんな事柄は彼女の頭に深く残ってもいないらしかった。――依子がお父ちゃまだのお母ちゃまだのと云ってるという話を敏子は大変喜んだということ、そして敏子は余り依子の其後の様子を聞きたがらなかったということ、その二つだけが彼の心に印象を与えた。
幾代は帯の間から小さな金襴の袋を取出した。中には鬼子母神の守札がただ一枚はいっていた。敏子が云いにくそうにもじもじしながら、これを依子の肌につけてくれと頼んだそうである。――然しなぜか、その守札は仏壇の上に乗せられたままになった。
俺は……
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