下駄の音で、それと知ったけれども、なおじっと耳を澄ましたまま身を動かさなかった。暫くすると急いで階段を上ってくる足音がした。兼子がはいってきた。
「あなた、お母様が帰っていらしたわ。」
 彼は黙ってその顔を眺めた。彼女は何かしら慌てていた。ちちりと眼を外らして、そのまま階下《した》に下りていった。彼も立ち上った。室の中を一廻りくるりと歩いて、それから母の所へ行った。
 幾代は火鉢の前に坐って、茶を飲んでいた。そして兼子に話していた。
「さほど遠いような気もしませんでしたよ。気が張っていたせいでしょうね。」
「然し、」と彼はいきなり云った、「随分時間がかかりましたね。」
「ええ、いろいろ話があったものですから。」
「そして、あの向うの御返事は?」と兼子は尋ねた。
「大体のことは承知したようですけれど、四五日待ってほしいと云っていました。余り突然だったものですから、それは喫驚しましてね……。」
 幾代はふと口を噤んだ。そして思い惑ったような風で二人の顔を見比べた。それから急に眼を輝かした。彼女は少からず興奮していた。一度に種々なことを饒舌りだした。
「狭い古い家ですけれど、わりに小綺麗にしていましたよ。……すぐに分りました。ふいに俥を乗りつけたものですから、怪訝な顔で私を見ていましたが、すぐに私だと分ると、まあ奥様! と云ったきり、上れとも何とも云わないではありませんか。一寸相談があって来ましたと、私の方から云って、座敷に通りはしましたが、何と挨拶をしてよいものか、私も全く困りました。……瀬戸さんに万事お任せしてるものですから、時々噂を聞くきりで、逢ったのはあの時から初めてなんでしょう。……室の隅の方で、小さなお河童《かっぱ》さんの子が遊んでいました。眼の大きな可愛いい子でした。私の方をじろじろ見ていましたが、お辞儀をなさいとお母さんから云われて、小さな膝を揃えて丁寧にお辞儀をしたかと思うと、そのまま玩具《おもちゃ》の上に屈み込んでしまいました。その子だということは初め一目見た時から、私にはよく分っていました。早速|手土産《てみやげ》の玩具を出して、こちらへおいでと云いましたが、いつまでもじっと縮み込んでいます。気がついてみるとお敏《とし》はしくしく泣いています。私も思わず涙が出て来ました。何と云ってよいか分りません。それに、あなた[#「あなた」に傍点]といったような調
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