え、一人の存在を弄んではいけない。
「そんなら、」と兼子は云った、「私にはその子供を愛せられないと思っていらっして?」
然し彼から云わせると、それがなおいけなかったのだ。愛しようと欲することと愛するという事実とは、別なものであった。彼女はそれを混同していた。他の女と良人との間の子を引取って、それを実の母のように愛すること――愛したいということ、其処に彼女の任侠的な感傷があった。そして子供の上に一種の美しい幻を投げかけていた。
「僕はお前を愛するから、」と彼は云った、「僕の過去の暗い罪で、お前の生活を乱したくない。」
それでも彼女はびくともしなかった。彼女の存在は無意識的に、自分一個の生活よりも、更に広い生活を欲していた。たとい自分の一部を犠牲にしても、次の時代の母となりたがっていた。依子を引取ることによって、奇蹟のように自分に児が出来るならば、それに越したことはなかったが、たとい児が出来ないまでも、それは少くとも美しい感動すべき行いだった。そして依子を実子のように愛したら……。
兼子と幾代とは、間接に依子の面倒を見てる瀬戸の伯父に、相談してみた。酒肥りの大ざっぱな瀬戸は、即座に賛成した。そして自ら進んで彼に説いた。彼は諾否の返答を与えなかった。然し皆にとっては、決答がないのは承諾と同じだった。
「私が内々向うの意向を探ってみましょう。」と幾代は云った。
幾代が一人で出かけてくれたことは、彼にとって嬉しいことだった。然しそれに自ら気付くと、いつのまにか自分も茲まで引きずられてきたことが、驚いて顧みられた。
「一体お前自身は、そうしたいのかしたくないのか?」と彼は自ら反問してみた。何とも云えない嫌な気持ちになった。信じきってるような兼子の顔を見ると、狼狽の気持まで更につけ加わった。彼はふいと座を立った。書斎の机に坐ってみた。庭を歩いてみた。それから散歩に出てみた。然し遠くへは行かなかった。何だかしきりに気にかかった。家の前を何度も往き来した。或る坂塀の下の隙間から、可愛らしい仔猫が首を出して、彼の方を覗いていた。それを見て彼は、また家へはいっていった。
「お母さんはまだ?」と彼は尋ねた。
「はい、まだお帰りでございません。」と女中は答えた。
母は家を出てから、四時間ばかり後に帰ってきた。その時彼は書斎にぼんやりしていた。玄関先の石疊みを踏む両刳《りょうぐり》の
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