り]
 時彦――どうもおかしいぞ。俺たちは誰も、ひとの髪の毛なんか引っ張ってはいないね。そして誰からか引っ張られてる。振り向いても誰もいない。然し引っ張られてることは確かだ。これは、酔っ払ったせいじゃない。何かある。奇怪極まる。
 愛子――なんでしょうね。あたしなんだか怖くなっちゃった。
 酒太郎――なあに、こんどやったら、俺が引っ捕えてみせる。
 煙吉――世の中には理外の理ということもある。お化じゃないか。お化だったら面白いぞ。お化、出て来い。
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何かの気配を感じて、警戒するかのように、一同は一つ所に寄り集まる。
一同の正面、つまり正夫を背後にして円卓の一端に、ぼんやりと人影が現われる。白髪の老女で、薄鼠色の和服を着ているが、全体がぼやけて形体は定かでない。――このあたりから、正夫は顔を挙げて、やはり卓上に頬杖をついているが、眼は伏せず、一同の方をぼんやり眺めている。
[#ここで字下げ終わり]
 老女――お前さんたちの髪の毛を引っ張ったのは、このわたしだよ。なあに、ちょっとした悪戯さ。気味わるがらなくてもいいよ。悪意はないんだからね。
 ――お前さんたちには、古い馴染みだ。わたしの夫、正夫の父がね、やはり正夫のようだった。いえ、正夫が父に似たんだろうよ。父の方はたいへんな酒好きで、とても正夫どころではなかった。毎日朝酒を飲んで、昼酒を飲んで、そしてまた寝酒を飲んだものさ。もっとも、それは亡くなる前のことだがね。煙草は始終口から離さなかったよ。若い時から女道楽で、老いてますます盛んな方だった。どこやらに、落し胤も幾人かある筈だ。そんなだから、したがって懶け者で、まとまった仕事をしたこともなく、ぶらぶら遊んでばかりいたよ。そして肝臓と腎臓とを悪くして、亡くなってしまった。
 ――そんな男だけれど、ただ一つ取り柄があった。物にこだわらないことだよ。恬淡というか、無頓着というか、一つのものに執着することがなかった。酒を飲んでも酒に呑まれることはなかった。煙草をいくら吸っても、煙草に吸い込まれることはなかった。女好きではあったが、女に丸めこまれることはなかった。その点を、わたしから見れば偉いと思うよ。何事も、心から執着しなければ本当のことは分らない、と言われてるけれど、また逆に、執着したために分らなくなることも、しばしばあるからね。
 ――そこへゆくと、この節の男たちは、みみっちくなったものだ。何にでもすぐに溺れ込んでしまうからね。酒に溺れる、煙草に溺れる、女に溺れる、仕事に溺れる……。溺れないものがあるかね。溺れたらもう駄目だよ。水に溺れた者が水から逼い出して来たためしがあるかね。水から出るのは、もう死体になってからだ。
 ――だから、お前さんたちも用心するがいいよ。うっかりすると、とんだ殺人罪を犯すことになる。なにしろ相手が相手だ。何にでも溺れたがってるものね。泳ぎを知らない者が、旱魃だからって、深い淵に飛び込むような真似を、すぐにしたがるからね。
 ――それに、お前さんたちの方にも、罪があるよ。みんな慾が深くなってきた。つかまえたらもう放さないという慾心さ。さもしいものだ。きっとお前さんたち、昔と違って、貧乏になったんだろうね。貧すれば貪するさ。でも、自分の分限を知らなければいけないよ。のさばるのはまあよいが、慾張ってはいけない。注意しておくがね、あまり慾張ると、元も子も無くしてしまうよ。分ったかね、分ったらそれでいいさ。
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老女の姿、掻き消すように消えてしまう。一同はほっとしたように、酒を飲みだす。
暫く無言。
[#ここで字下げ終わり]
 酒太郎――忌々しい婆だ。
 煙吉――俺たちに意見をしていきやがった。
 愛子――あのひとに髪の毛を引っ張られたかと思うと、頭中がむずむずしてくる。
 時彦――然し、みごとにやっつけられたね。
 煙吉――誰がさ。
 時彦――俺たちみんなだ。
 煙吉――いや、俺はやっつけられたとは思わん。
 愛子――あたしもそうは思わんよ。時代が違って、物の考え方が違っただけのことさ。
 酒太郎――だが、俺たち、貧乏になったんだろう、には参ったね。まったく、下落したんだからね。
 煙吉――下落したって構わん。何もかもがそうじゃないか。
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一同は何かがやがや言いながら、自暴自棄のように飲み食いする。その光景は、ますます乱雑になる。
不思議なことに、室内にいるのはどうも彼等だけではないような感じだった。私(筆者)は初めからそういう印象を受けていた。眼に見えるのは彼等だけだが、まだ他にもいろんな人物がどこかに潜んでいる、そういう気配だった。もとより、それらの者は、姿を現わしもせず、口を利きもしなかったが、確かにその室内にいるに違いなかった。実体の分らな
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