酒を飲み、煙草をふかし、真珠菓子をかじり、蜂蜜まで嘗める。――その乱雑な光景を、議一は少しわきの方に突っ立ったまま、茫然と眺めている。
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 愛子――あんた、そんなところに突っ立ったきりで、どうしたのよ。ばかみたい。こっちい来て、仲間にはいりなさいよ。構わないわよ。
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議一はおずおず近寄って、酒盛の仲間にはいる。そして彼一人だけ、椅子に腰を下す。
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 煙吉――少し動きたくなった。歌でもうたいたくなった。お前たちはどうだい。
 時彦――よしきた。元気にいこう。
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時彦が音頭を取って、ラ・マルセイエーズを歌い出し、一同それに和して歌いながら卓を叩いて拍子を取る。議一ひとり黙っている。
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 愛子――あんた、なぜ歌わないの。
 議一――僕は、そんなバター臭い歌は知らないんだよ。
 愛子――まあ、フランスの国歌じゃないの。そんなら、何を知ってるの。
 議一――そうさなあ。ノーエ節ぐらいなもんかな。
 愛子――ノーエ節……。ああ、富士の白雪というあれでしょう。
 酒太郎――宜しい、こんどはあれにしよう。ぐるぐる廻って、際限なく歌える。この円卓みたいなもんだ。
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一同はノーエ節を歌いながら、円卓のまわりを踊るように歩き始める。歌は終りからまた初めへと連続し、彼等は円卓のまわりを何回も廻る。――ただ議一だけ、腰掛けたままでいる。
ふと、時彦は議一の側に立ち止って、その顔を覗き込む。
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 時彦――やあ、これは不思議だ、俺のあの菓子を食ったのに、この男は居眠りをしている。眠られる筈はないんだがなあ。
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皆そこに集まってくる。
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 煙吉――眠られなくなるって、本当かね。
 時彦――俺は嘘は言わない。
 煙吉――それじゃあ此奴、狸寝入りか。
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煙吉は議一の背中を殴る。他の者も一緒になって殴る。議一は眼を覚して、あたりを見廻す。
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 煙吉――お前、ほんとに眠ってたのか。
 議一――自分自身がどっかへ、すーっと消し飛んでゆくような気持ちだった。そして夢を見た。
 煙吉――どんな夢だ。
 議一――河の深い淵だった。上手の方は、浅い瀬で、きれいな水がさらさらと流れていた。その水が流れ下って、深い淵になっている。心のうちで、その淵を見つめていると、淵はだんだん深くなる。底知れず深くなる。そして水は濁り黒ずんで、澱みきっている。底の方がどうなっているか、見当もつかない。たぶん空気も通っていないんだろう。水は腐ってるんだろう。魚も寄りつかないらしい。そうした深い淵が、ずっと下流まで続いていた。淵の一方は高い急な崖で、僕はその崖の上にいた。崖から淵の方を覗き込むと、恐ろしい力で吸い込まれるようだった。否応なく、運命的に、僕は淵に落ち込むことになっていた。僕は一生懸命に抵抗した。崖縁にしがみついた。だが、ずるずる滑り落ちてゆく。どうにもならない。そら、もうすぐ淵だ。上からは石ころが落ちてくる。どんどん落ちて来て、背中に当る。もう駄目だと思った。そして眼が覚めたんだ。
 煙吉――ほほう、そんな夢か。それじゃあお前は、俺たちに感謝していいよ。俺たちのお陰で、お前は淵に落ち込まなかったんだからな。
 議一――夢の中のことだよ。
 煙吉――夢にしてもさ。俺たちがお前を叩き起してやったんだ。
 議一――魘されてでもいたのかい。まったく、あの深い淵はいやだった。胸がむかつくようだ。
 酒太郎――夢の話なんか止せよ。胸がむかつくようなら、もっと酒でも飲め。
 愛子――この真珠菓子を食べたのが、いけなかったんじゃないの。
 時彦――ばか言うな。これを食べたくせに[#「食べたくせに」は底本では「言べたくせに」]居眠りなんかするから、いけないんだ。然し、この男はちょっと変ってるな。夢の話も捨てたもんじゃない。ちっとばかり、気骨を持ってるようだ。
 酒太郎――なあに、気骨もくそもあるものか。さあ、飲め飲め。
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議一はぼんやり酒瓶を取り上げる。一同も再び飲み食いを始める。席は乱雑になる。
間。
不思議なことが起った。議一を除いて、他の者たちは、後ろから髪の毛でも引っ張られるかのように、時々、手を挙げて後頭部を打ち払う仕種をし、振り向きもする。
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 酒太郎――誰だ、俺の髪の毛を引っ張るのは。
 煙吉――誰だ、髪の毛を引っ張るのは。
 愛子――だめよ、髪の毛なんか引っ張っちゃあ。
 時彦――いたずらは止せよ。
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その都度、互に顔を見合せて、怪訝な面持ちになる。
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