というものを観念的に考えているのではないかと思われる。
 自由というものが、生活から引離されて観念的にしか存在しなくなる時、云いかえれば、自由の一面が生活から切取られる時、生活は不具になる。この生活の不具の苦痛を、自由主義は最も強く感ずる。それは、観念的な自由が、政治的に或は経済的に如何に各人に分与されるかの問題ではなく、生活それ自体が自由の面を如何ほど保有してるかの問題である。自由主義のあらゆる運動の強弱は、生活の自由の面の広狭に正比例する。
「学芸自由同盟」の創立も、恐らくは、現時の吾々の生活に自由の面が如何に縮小されてるか、そしてそのために生活が如何に不具になされ歪曲されてるか、それを苦痛として感ずるところから起ったものであると、私は考える。随ってその態度の基調は、不具ならざる生活――自由を有する生活――の防衛であろう。そしてかかる防衛は、完き生活のためが、唯一の「ため」であって、他の特定なる政治的な或は社会的な或は経済的な「ため」ではないが故に、通常は、思想的には批判者の地位に立つものであり、実践的には後衛の地位に立つものだと思われる。そこに、この同盟の行動の自由性と各種前衛分
前へ 次へ
全7ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング