上、上述の正義感と同様、常に実際生活に即した問題となる。そしてこの「自由」を主張する自由主義なるものが、社会進展の実践的動向に対して指導理論を提出しないにも拘らず、常に多くの人々に関心を持たせる所以は、そこにある。
近日創立されるらしい「学芸自由同盟」なるものが、同盟としての今後の行動に対する明確な見通しがつかないにも拘らず、社会各方面の人々を包括し得る可能性がある所以も、またそこにあるのではないかと、私は考える。この意味で、自由主義者とマルクシストと肩を並べることを非難する人々に対しては、もう一歩手前の考察を希望したい。
も一歩手前の考察をなす場合、今になって「学芸自由同盟」などの創立が何故に必要であるかとの反問が、当然起ることであろう。そこで、何故に必要であるかよりも何故に創立の議が起ったかを考える時、吾々の生活から、それが本能的に持っている自由なるものが次第に引離されてきた情勢が、先ず眼に映る。
自由というものは、生活と一体を為すべきものであって、生活から引離された観念的な自由というものは、理論の遊戯である。自由という化物が嘗て存在したことがあるかという人々こそ、却って自由
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