の時彼の意識の中は、広漠たる空白で、而もその空白のなかに無数の超現実的な映像が立罩めていた。後になって彼は、そうした頭脳の働きを、自分の非社交的な性格の根柢に関係があるものだとし、人工に対する自然の反逆の癲癇的発作だと称した。がそれはとにかく、彼はその時、無数のビルディングの屋根をはぎ壁をはいで、その内部を素裸にして眺めた。出勤時刻のサラリーマン階級の群像が、その上につみ重った。依田賢造の顔が大映しになって前景に浮出した。彼はたえ難い寂寥を覚えた。その寂寥のうちに、肉体的とも精神的ともつかない嘔吐の気を感じた……。
それはただ一瞬間のことだった。彼はすぐに自分自身を見出し、落付いた気持に返った。嘲笑的なものが顔の筋肉を和らげた。彼は歩きだし、往来に唾を吐いた。あらゆるものに反抗したかった……。
其後のことは、簡単に述べておこう。彼は日比谷公園の木影のベンチに一時間ばかり休んだ。それから自動車で上野の方へ向った。懇意な家の一室で、夕方まで蔦子を相手に酒をのんだ。暫く郷里へ帰ってくるという言葉と、二千円の現金とを、呆気にとられてる彼女へ残した。その夜彼は東海道線の列車に乗りこんでいた。
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