た。坪井はつまらない用件なのに不審がって、依田氏の顔色を窺った。すると、依田氏はなお声をひそめて、自分が出かけていっては工合がわるいことがあると弁解し、個人にせよ会社にせよ、時として秘密な窮地に立つことがあるものだと云い、この商事会社の立前として無抵当金融は絶対に謝絶しているので、秘密を守るためには君より外に使者がないと云うのだった。もしこの秘密が少しでも外部にかぎ出されたら、いろんな思惑が行われる懸念があると、その点を彼はくどいほど注意した。坪井はぼんやり聞いていた。貪慾そうな彼の口から出るばかにやさしい細い声が、まるで彼自身の声とは思えなかったし、而もその声の背後には、人の心のなかまで見通そうとするような光をひそめた小さな眼が、油断なく監視しているのだった。それらの肉体的な特長に対して、坪井は一種の恐怖と反撥とを覚えて、七千円の包みを抱えながら、静かに室を出ていった。
 街路に出て、大きく息をついたとき、坪井は軽い眩暈を覚えた。春の陽光が空に満ちて、その反映のため、大建築の立並んでる丸の内のオフィス街は水中にあるかのようだった。彼は円タクを呼止めるのを忘れて、ぼんやりつっ立った。そ
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