の気持はあった。それなのに、彼女の真剣に生きることを何が妨げているのか。坪井はまた考えこんだ。
「考えちゃいけないわ。」
「考えやしないよ。」
そして坪井は立上ったのだった。
「帰るの。」
「うむ。」
蔦子は別に引止めなかった。坪井は一人で、薄ら寒い春先の夜更の街路を歩いていった。俺がもし金をもっていたら、蔦子なんかには眼もくれないかも知れないと、そんなことが考えられるのだった。もしひどくせっぱつまったら、彼女を殺すかも知れないと、そんなことも考えられるのだった。
それから一ヶ月ばかりの間――その頃坪井は島村陽一に一寸逢ったのだが――坪井は薄暗い憂欝のなかに浸りこむと共に、蔦子からも次第に遠のいてゆくようだったが……。
或る日、坪井は会社で、また社長の依田賢造から呼ばれた。
「君にまた頼みたい用件が出来たよ。」
依田氏は声をひそめて云った。これから某会社の専務取締のところへ出かけていって、現金七千円と引替に、一ヶ月期限の約束手形八千円の証書を貰ってきてほしいと、ただそれだけのことだった。但し振出人は先方の専務個人で、宛名はこちらの会社だから、それを注意してこなければならなかっ
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