らもかかってこず一人残っていた。そこへ、おしげが不意に訪れてきたのだった。
「だいじな話ですが……。」
さも秘密らしく、玄関で彼女は蔦子の耳にささやいて、ほかのひとたちが出払ってるがらんとした室の中を、じろりと見渡した。その様子に、蔦子はただならぬものを感じ、ばあやさんにあとをたのんで、おしげを近くの小料理屋の二階に連れていった。
おしげは赤茶けた後れ毛をふるわせ、きつい眼付で、いきなり尋ねかけてきた。
「大連に行くとかいう話は、どうしました。」
その改まった調子に、蔦子はけおされた。笑うことも出来ず、まがおになって、あれはただ一寸したお話で、決してそんなことはしないと誓った。
「それから、」とおしげはなお追及してきた、「あの……わるい人とは、ほんとに別れる決心がつきましたか。」
坪井のことだと分ると、蔦子は返事に迷った。おしげが真剣なだけに、嘘は云えなかった。考え考え答えた。決して悪い人ではないこと、けれど、初めから好きでも嫌いでもないこと、ここで切れようと思えばお互にどうにでもなること、方々に不義理をしているので、それで困って、やはり逢っていること……。そのおしまいの理由が
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