しまったその時のことが、まるで夢の中のようだった。別に話すこともなかった。薄曇りの昼間の明るみの中で、そうして差向いになっていると、坪井が好きなのかどうかさえ分らなくなってくるのだった。
 もともと、好きあった仲でもなかった。坪井はどこか田舎者めいたがっしりとした体格で、流行唄とききかじりの端唄とに柄《がら》にない節廻しを見せるきりで、好きだからというのでなくただ飲むために飲むという風に、どこか捨鉢な速度で酒杯を重ね、その飲みかたに蔦子もひきこまれて、酔った揚句、偶然といってもよい程のことで出来合ったのだった。而も蔦子にしてみれば、抱えの身ではあり、出てから四年にしかならないし、堅くしていられる身分でもなかったので、普通の稼ぎにすぎなかった。それが、次第に馴れあってゆくに従って、いつしか深くなってしまったのである。そしていくらか噂にものぼり、朋輩たちからからかわれて、珈琲を奢らされるのが嬉しくなる頃になると、坪井の方では金に困ってきた。そして坪井は皮肉になり、嫉妬の情を示すようになり、それと丁度同じ比例で、蔦子の心は坪井へ傾いていった。その頃から、お互に無理をしあい、出先へは不義理がか
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