らないの。」
 それが、何のことやら僕には分らなかった。ただ、彼女全体の感じが、冷たく、しゃちこばってるようなのは分った。ヒステリー気味なのかも知れない。いつもと違って、僕の方でお茶をいれてやった。
「では、今晩からもう参りません。」
「ああ、どうでも、自由にしたがいいよ。」
 まったく、自由に振舞うのが一番よろしいのだ。
 だいぶ長く黙ってた後で、彼女は立ちかけたが、また腰を落着けた。
「では、そういうことにしましょう。それから、少しお願いがありますの。」
 ちと金に困ることが出来たから五万円ばかり用立ててくれないかとのこと。先に十万円用立てて貰ったから、都合、十五万円拝借することになるそうである。
 僕は微笑した。まさしく彼女の方でも妾とか愛人とか、そういう感情は持っていないらしい。
「ああいいよ。いま手許にないが、明日にでも届けてあげようか。」
「いつでもよろしいの。」
 大して入用でもなさそうな調子だった。ただへんに没表情な硬ばった顔付で、彼女は帰って行った。なにか胸に秘めてるものがあって、それを精一杯に押し隠してる、という風にも見えたが、女なんて、どうせいつかは打ち明けるにきまってるのだ。
 とにかく、壁土が乾いて、彼女が自室に落着けるようになったのは、よいことだ。その夜から僕は、寝室の真中に布団を敷かしてのびのびと寝た。
 翌日の晩、僕はムラサキへ酒を飲みに行き、約束の金をそっと三千子に渡した。彼女の態度は冷淡だった。然しその方が、馴れ馴れしく好遇されるよりも、僕には却って気楽なのだ。ずいぶん酔った。それから、数人の客がまだいたので、菊ちゃんを陰に呼んで、マダムがいつも家を空けて淋しかったろうと、帯地の包みを内緒で渡した。この内緒で渡したのが僕の手落で、つまらない策略を三千子に思いつかせる動機となったのだ。実は、迂濶にもいろいろなことを見落していた……。

     二、村上三千子の告白

 わたしは高木さんを愛していたのであろうか。そうであったとも言えるし、そうでなかったとも言える。頼りにしていたことだけは確かだ。それならば、高木さんの方はどうかと言うと、これは全然分らない。
 思えば、わたしは少し生きすぎた。夫が南方で戦死した時、三十三までは生きようとわたしは思った。なぜ三十三までか。はっきりした理由はなく、ただなんとなくそう思ったのだった。女の感傷に三十三という歳は魅惑がある。それが、崎田さんと酒場なんかやることになって、うかうかと三十三を通りこしてしまった。今になってみると、ずいぶん昔のような気もする。それほどわたしの心情も変ってしまった。夫のことだって、遠い思い出にすぎなくなった。
 鏡を見つめてみると、額の皺の数が多くなり、眼尻や口許に小皺が目立ってきた。笑ってみると、それらが殊にはっきりしてくる。髪の生え際の額の皮膚が、へんにてらてらしてきたようだ。そういうことがわたしは悲しい。いつまでも若々しくしていたいのではない。忍び寄ってくる老いの影が、過去からわたしを遠ざけるのだ。それは構わないとして、現在のわたしに何があるだろうか。酒場のマダムという稼業だけで、何にもない。何にもない。わたしは念入りにお化粧をするようになった。商売柄、あまり派手に目立ってもいけないので、ほんのりと匂う程度に、ずいぶんと苦心をする。
 こんなことをして何になるのかと、時には反省してみる気分にもなる。頼りないのだ。世の中が、自分自身が、頼りないのだ。この人ならと、頼りにしていた高木さんまでが、よく識るにつれて、だんだん頼りなくなってきた。
 初めはわたしの方から捨て身になって、寄りかかっていったのだけれど、もうもう、別れてしまおうと、幾度思ったか知れない。けれど、あの人は、私の方から寄りかかってゆけば、何のこだわりもなく抱き取ってくれた、それと丁度同じように、私の方から立ち去ろうとすれば、何の未練もなく、振向いて見ることさえしないだろう。それがわたしには不満なのだ。もうわたしに倦きはてた、というのではない。あの人にとってわたしは、路傍の石にも等しいのだろうか、飼い猫にも等しいのだろうか。もしあの人が、惜別の涙の一滴でも流してくれるなら、わたしはほんとに別れてみせる。わたしにも意地というものがある。即くも離れるも一向平気だとなれば、わたしは別れたくない。男女の関係なんて、そんな無意味なものだろうか。
 たいていの男のひとは、女に対して、好きか嫌いかがはっきりしてる筈だ。倦きたら倦きたでいい。現在、好きか嫌いか、どちらかだ。女にしても、男に対してそうだ。ところが高木さんときては、わたしに対して、好き嫌いの区別が全くないらしい。それに気が付いた時、わたしは心の中で泣いた。泣くよりも辛い気持ちになった。
 酒場なんかやっているといろいろ
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