うで危いから、用心してるんだけれど……。
何を言ってることやら。僕にはただ鴎を眺めていた。大きな翼を拡げて朝の陽光をすいすいと切っている、その羽ばたきが、さまざまな模様を空中に描き出し、さまざまな文字を空中に描き出す。彼等は言葉を持たないが、その羽ばたきの紋様によって、互に話をし合ってるのではあるまいか。その飛翔の姿態を、気長くフィルムに収め、詳細に観察してみたら、どういう結果が出てくるだろうか……。
「まあ、あなたってひとは……。」
三千子は僕の肩をとんと突いて、眉をちょっと吊りあげていた。眉を吊りあげると、切れの短い眼尻がくっきりとして、ふだんより美しく見える。僕は頬笑んだ。それがまた彼女には不満なのだ。結論としては、僕には一片の愛情もないということになった。そうかも知れないな、と僕も思う。それからまた鴎を眺め、黙々と彼女のあとに随って、海岸をぶらつき、熱海に遊びにゆき、も一晩泊るつもりだったのをやめて、東京に帰って来てしまった。
いつも、そんな調子である。然し、女の気分なんてものは、どうせ、天気模様と同じようなものだ。主動権は気圧の配置にあるので、こちらでそれを掌握しようとあくせくすることはない。
僕の家では、三千子は客間に一人で寝るのは淋しいと言い出したから、僕の寝室に寝かした。三十五歳にもなって一人では淋しいというのも、おかしな話だ。階下の奥の室には、母と圭一とが寝ている。僕は妻の死後、幼い圭一をすっかり母に預けた形になった。母は圭一を無性に可愛がり、僕の方はすっかり放任しておいてくれる。三千子のことだって何とも思っていないだろう。
三千子は僕が起きてるまで起きていて、なかなか先に寝ようとしないので、僕もつい気の毒になり、仕事をやめて寝室にはいる。ところが、彼女はひどく朝寝坊で、僕が起きてもまだ寝ていて、たいてい十時すぎでなければ起きて来ない。それから一時間ばかりかけて、丁寧なお化粧が始まる。御婦人のお化粧は覗くものではないから、僕はその場を避けるのだが、一時間もかかって何をしてることか。
お化粧に入念な代り、他の事には彼女は全く手を出さない。布団をたたむことさえしない。食器を台所に片附けもしない。ましてや室の掃除などもしない。すべて女中任せで、手伝おうともしない。旅館に泊ってるのと全く同じ態度だ。それかといって、泰然自若としてるのではなく、なにか苛ら苛らしてるようだ。新聞に目を通しながら、ばさっと大きな音をさせて裏返したりする。
「あなた、呆れたでしょう。」
何のことを言ってるのか、僕には見当がつかない。
「呆れたと仰言いよ。」
眉を吊りあげて、じっと見入ってくる。
僕は頬笑むだけだ。
「ほんとのこと、言ってよ。」
「だって、何を呆れていいのか、僕には分らないね。」
「どうせ、あなたは、そうでしょうよ。」
新聞をばさばさ折りたたんで、二階の室に上ってゆく。
なにか腹を立ててるんだな、と僕も思うのだが、然し、腹を立てる理由なんかどこにもない筈だ。而も、家の者たちに対してではなく、僕に対してに違いない。彼女はよく、いろいろな物を買って来てくれた。女中には、下駄だの足袋だの手拭など。母と圭一には、菓子や果物など。そして彼等の間に気まずい点はどこにもなさそうである。冗談を言って笑ったりしている。
僕に対してだけ、三千子はちとおかしい。それが次第に昂じてゆくらしい気配さえある。どういうことになるだろうかと、多少の興味も持たれてきたが、案外、つまらなく済んでしまった。
二週間ばかりたった或る夜、彼女は来なかった。平素より少し遅くまで起きていてやったが、表には呼鈴もあるからと思って、僕は寝た。
翌朝午前中、彼女は来た。朝寝坊の彼女にしては早すぎる。寝不足らしい蒼ざめた顔色だ。書斎にはいって来て、火鉢の横にぴたりと坐った。
「昨晩、お待ちなすったの。」
詰問するような調子だ。
「少し遅くまで起きてたが、来ないから、先に寝たよ。」
「そう、わたしのこと、心配じゃなかったの。」
「なぜ?」
「心配なんか、なさらなかったのね。」
「心配するようなこと、なにもないじゃないか。」
「そう。」
彼女は黙って暫く考えていた。女が黙って考えこむことなんか、どうせ下らないことにきまっている。僕は煙草をふかしながら外を眺めた。
「わたし、もう来なくていいわね。」
まるであべこべだ。
「来なくていいかどうか、それは君の都合次第だよ。」
「そう。そんなら、もう壁も乾いたから、泊めて頂かなくていいわ。お宅の高いお米を食いつぶしに来なくても、よくなりました。」
「米のことなんか、どうだっていいよ。」
「お米のことじゃありません。お宅のお米を食いつぶしに来なくてもよくなりました。こんなことを言っても、あなた、なんともお思いにな
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