好人物
豊島与志雄

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     一、高木恒夫の告白

 人生には、おかしなことがあるものだ。三千子は僕に対して、腹を立ててるようだが、それもおかしい。僕は彼女の意に逆らったことは一度もなく、すべて彼女の言いなり次第になっているのに、彼女一人でなにか苛ら立って、僕を怒らせようと仕向け、それでも僕が一向に怒らないものだから、ますます焦れてくるといった風である。見ていると、滑稽で気の毒にもなるが、たかが女のことだ、放っておくに限る。物事を面倒くさく考えるのは、第一、僕の性に合わない。横から眺めたり、裏から眺めたりして、ほじくり返すよりも、正面から静かに眺めてる方が、よほど面白い。
 三千子が僕の家に、二週間ばかり、夜の宿を借りに来たことがあった。その時も、だいたいの事情を知ってる友人間に、おかしな異議が起った。
 あの女を家の中にまで引き入れるのは怪しからん、というのがその一つ。つまり、彼女は僕の妾に過ぎないという論拠なのだ。然し僕としては、彼女を妾だなどと思ったことは全くない。もっとも、彼女に金を出してやったことはある。戦争未亡人が二人共同で、二人の姓を組み合せたムラサキという小さな酒場を開いていたが、その一人の崎田が店から手を引くことになり、後に残った村上が崎田に一定の金額を支払わねばならないことになった。その村上というのが、村上三千子なのだ。彼女が必要とする十万円の金を僕は出してやった。然し、それと僕たちの関係とは、全然別個のものだ。酒に酔って、どこかへ連れていってくれと彼女が言うから、顔馴染の特殊旅館へ行き、泊ってゆこうと彼女が言うから、一つ布団に寝た、それだけのことに過ぎない。御婦人に恥をかかせてはいけない、とかねがね僕は思っている。だから其後も、彼女の言うがままに、一緒にあちこちへ出歩いたのである。彼女は決して僕の妾ではない。
 また、あの女と結婚するとか、或いは同棲生活をするとか、そういうつもりなら、もっと事態をはっきりさせるべきであり、少くとも酒場なんかやらせておくべきではない、というのもその一つ。つまり、彼女は僕の愛人だという論拠なのだ。然し僕にとっては、彼女は愛人なんかではない。情婦というにも価しない。ただ僕は、消極的に、鄭重に、彼女を待遇してるだけのことだ。本当に愛情を持つ場合には、何等かの意味で、積極的になり、攻勢的になるものだが、僕は彼女に対してそんなことは嘗てなかった。ただ、何事をも拒まなかっただけのことだ。
「室の壁を塗り代えさせたいと思うんだけど、壁土が乾くまではとても冷えるんですって……。だから、その間、あなたんとこへ泊りに行っていいかしら。」
 そういう三千子の提案を、僕は無条件に承知したに過ぎない。実際、ムラサキの二階の彼女の居室には、左官屋が仕事を始めた。彼女は近所の便利なところに、泊り場所ぐらいは見つけられた筈だが、夜遅く、電車で僕の家へやって来た。そして朝寝坊をし、午後になって出かけて行った。僕はなんにも構わず、彼女の為すままに任せておいた。
 僕の方も宵っぱりの朝寝坊だ。亡父の時代からの写真業の方は、だいたい原野がやってくれているから、僕は道楽の古代文字研究に耽ることが出来るのである。碑面、塋窟の壁面、石器や陶器、其他種々の考古学的資料などについて、夥しい写真を蒐集している。実物でなくて写真で済むから便利だ。それらを仔細に観察してゆくと、文字だと思われるものが実は模様だったり、模様だと思われるものが実は文字だったり、そして最後には両者の区別のつかない一線につき当る。その線上では、人間の言葉と身振りとが合致するのだ。
 夜更けまで、書斎で文献を読みあさっていると、三千子がやって来る。家の者はみな寝てるので、自分で戸締りをして、書斎にはいって来、熱い茶をいれて飲む。そういう約束になってるのである。
「ああくたぶれた。……まだなの。」
「もうちょっと。先にやすんでていいよ。」
 彼女は不満そうに、火鉢の炭火をかき立てて、何かと僕に話しかける。だが、まとまった話題のある筈はない。古代文字なんかに彼女が興味を持たないと同様、酒場の些事なんかに僕は興味を持たないのだ。
 伊豆山温泉に行った時も、そのことで彼女に怒られた。朝から少しばかり酒を飲んで、僕はただ、浜辺に鴎が群れ飛ぶのを眺めていた。彼女はいろんなことを話しかけた。酒場の経営に骨の折れること、貸し倒れが多いこと、陽気な客のこと、陰気な客のこと、嫌味たらしい客のこと、好いたらしい客のこと……ほんとに好きになりそ
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