将来の目当とを無視して、細君と向う見ずな同棲を決心しかけた時、偶然彼は吉岡と二人で晩飯を食って、酒の酔も少し手助って、自分の恋愛を打明けたのだった。その時吉岡は、今後の生活をどうする気か、君の芸術をどうする気か、と云って猛烈に反対した。相手の女が、教員排斥のことか何かで郷里の女学校をしくじって、東京へ無断で飛び出してきて、今では遠縁の家へ預けられてる身の上だということも、彼の反対の理由の一つだった。然し河野は屈しなかった。云い張ってるうちに一層決心を固めた。ただそれだけのことだったが、それが変に二人の間に一種の親しみと気兼ねとを拵えていた。それで河野は、吉岡に頼るのが心苦しかったけれど、切迫《せっぱ》つまった余り思い切って出かけてみた。吉岡は彼の窮状を黙って聞いていたが、結局、別居こそしているが自分には父もあるし、金銭の自由は全くつかないのだけれど、四五日待ってみてくれ、考えてみるから……という返辞をした。河野はとても駄目だと思って帰った。それでも心待ちにしていたが、四五日たっても便りがなかった。すると一週間ばかりして、河野夫妻が絶望の腹を据えてる所へ、吉岡はふとやって来て、高利貸からの証文まで持って来てくれた。無理に金を融通した上、自分で高利貸の所へ出かけていって、八百円に負けさしてきたのだそうだ。河野夫妻は感謝の涙にくれた。
河野はその時のことを――勿論細君との恋愛について吉岡が反対したという昔の話はぬきにして――敏子さんへ話しながら、眼の中が熱くなるのを覚えた。
敏子さんは彼の話を、それから、それから、というように急いで簡単に切上げさして、その上、その折の書付なども見たことはないのでと云って、やはり金を取ろうとしなかった。
「書付なんか吉岡君は書かせはしませんでした。全くの好意からだったのです。吉岡君にお聞きになればよく分ります。実はもうとっくにお返ししておかなければならなかったのですけれど、始終気にかかりながらもつい延び延びになってしまったのです。漸く都合がついて持って上ると、吉岡君が急にお悪いようで、何だか変ですけれど、初めからそのつもりだったのですから、まあ御恩は御恩として、せめて元金だけなりと納めて頂けると、大変有難いんです。このままでは実際心苦しいんです。吉岡君が一言も何とも云ってくれないので猶更……。」
哀願の調子でそう云ってるうちに、河野の顔にふと苦しい表情が浮んだ。それに気付いてか、敏子さんは急に折れて出た。
「では吉岡が何と申しますか、兎も角も明日までお預りしておきますから、明日にでも……明後日にでも、おついでの時にお寄り下さいませんか。」
そして敏子さんは厚っぽくふくらんでる洋封筒を手に取りながら、かすかに顔を赤らめた。河野も同時に顔を赤くした。
二
吉岡は河野との対語に気疲れがしたせいか、うとうとと眠っていた。それで、敏子さんが八百円のことを彼へ話したのは、晩の六時半頃だった。
「私少しも知らなかったものですから、あなたにお聞きしてからと思いましたけれど、河野さんがあんまり仰言るので、何だかお気の毒のような気がしまして、一時お預りしておきましたが、どう致しましょう。受取っても宜しいでしょうか。」
吉岡は差出れた洋封筒をちらりと見やって、それから眉根をしかめたまま考え込んでしまった。その様子が敏子さんの腑に落ちなかった。だいぶ待ってから、低い声で尋ねかけた。
「他に何か訳がありますのですか。河野さんはただあなたから借りたのだと、それだけしか仰言いませんでしたが……。」
「一体河野君はお前にどんなことを云ったんだい。」
それで敏子さんは河野から聞いたことを――八百円の事件を――吉岡に話した。が吉岡は、そんな話はどうでもいいという風に、彼女の言葉を遮って尋ねた。
「どういうつもりで河野君は、今時分そんな金を拵えて返しに来たのか、そして僕には何とも云わないで、お前にそっと渡していったのか、そんなことについては何とも云ってやしなかったのかい。」
「いいえ別に……。ただあの時助けられたお影で、今はどうにか生活が立つようになったのだから、あなたにも安心して頂きたいと、そんなお話でしたわ。そして、つい話し込んで云いそびれたから、私へお渡ししておくと云って……。」
そこで吉岡はまた黙り込んで、仰向に寝たまま天井を睥めていた。それが十分か十五分も続いた。敏子さんはどうしていいか分らなくなって、彼の枕頭に散らかってる画集や雑誌などを片付けた。すると、其処にぽつりと置き残されてる洋封筒へ、吉岡は急に片手を差伸して、中の紙幣を引出したが、暫くじっと見てた後に、苛立たしく投り出した。紙幣がぱっと乱れ散った。
「まあー。」
呆気にとられてる所へ、怒った声で押っ被せられた。
「勝手にするがいい。」
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