ね。そういう時僕は非常に淋しくなったり苛ら苛らしたりしてくる。昨日も丁度そうだった。僕は大変気分がよいと感じてるのに、皆は僕の容態が大変悪いと思ってるのだ。そしてまた繰返して入院を勧めるんだ。僕はそれを頑として拒絶してやった。病院のあの四角な真白な室は、想像しただけでも牢獄のような気がするじゃないか。家にいればこそ、多少の我儘も云えるし、自由も利くし、いろんな空想や追憶の頼りになるものも多いし、まあ頭の中の風通しが出来るというものだ。それを一度病院にはいってみ給え、健全な戸外の空気が少しも通わないまるで牢獄だからね。僕だって、家にいれば必ず死ぬ、入院すれば必ず助かる、とそうきまれば入院しないこともないがね、第一そんな馬鹿げた理屈もないし、また僕は自分でそんなに悪くもないと信じている。でこの入院問題なんかも、実は僕自身の晴雨計と周囲の晴雨計との指度の差から来たことなんだ。そして僕は昨晩中、一体どちらが正しいかと考えてみた。向うには僕の外的内的の徴候だの医学だのと、いろんな科学的の根拠がある。然し僕の方には、僕自身の実感という確かさがある。実感にも狂いがあろうけれど、科学にだって狂いがないとは限らない。結局どちらも中途半端だね。が然し、両方が調子を合してきたら、よい方にならいいが、悪い方に調子を合してきたら、それこそ恐ろしいと思うよ。人間はそんな時に死の自覚を得るのじゃないかしら。……が僕はまだ、両方が喰い違っているから安心だ。そんな風に考えてきて、今日は馬鹿に晴々とした気持になったのだ。君にも同感出来るだろう。そして君は、君も皆と同じように、僕の容態を妙に気遣ってるようだけれど、君だけは僕の味方になってくれたっていいじゃないか。」
そんな風に――これは私が後で河野から聞いたことだから多少の差違はあるかも知れないが、兎に角、そんな風に云われると、河野はもう金銭のことを持出す気がせず、それかって坐を立つことも出来ずに、一時間近く吉岡の話相手になってしまった。吉岡の頬にはほんのりと赤味がさして、その興奮が落凹んだ眼と粗らな※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]髯とに病的な対照をなして、河野の心を囚えたのである。そして、看護婦が薬を与える拍子にそっと相図をしたので、河野は初めて我に返った心地で、慌てて病室を辞し去った。
さて帰る段になって、初めの用件が河野の眼の前にぶら下ってきた。彼は一寸途方にくれたが、これはじかに吉岡に話すよりは、敏子さんに話した方がよいと思いついて、そしてそれが最善の方法であると感じて、玄関へ片足下しかけたのを引返して、玄関側の室へ敏子さんを呼んだ。
「実は、一寸吉岡君に逢って、用事だけを果すつもりだったのですが、つい話し込んでしまって、その上用事も持ち出さないでしまったものですから、あなたへ……。」
といった風の調子で、彼は懐から洋封筒を敏子さんの前に差出した。
敏子さんは喫驚して眼を見張った。
「吉岡はそんなことを私へは少しも申しておりませんでしたが……。」
河野は一寸驚いたが、次第に頭を垂れていった。
「それも吉岡君の好意からだったのでしょう。私に気まずい思いをさせないようにと、あなたにまでも隠しておいてくれたのだと思います。」
そして彼は、吉岡から八百円借りた顛末を話した。――それは四年前の年の暮、河野が最も窮迫した生活をしてる時のことだった。友人の紹介でうっかり借りた高利の金がつもって千円余りになっているのから、厳しい督促が来て、遂に執達吏を向けられてしまった。僅かな家財道具は勿論彼が自分の生命としてる製作品にまで、差押の札が貼られた。そのうちの一枚の静物画は、或人の頼みで苦心に苦心を重ねて仕上げたもので、その報酬を方々に割りあててどうにか年を越す予定にしていたものである。それが差押えられては、無一文のままで年末と正月とを迎えねばならなかった。もう二三ヶ月分もたまってる家賃、諸払い、方々への少しずつの義理、僅かながらの正月の仕度、流質の通知を受けてる質屋への利払い……そんなもののことを一度に考え廻しながら、彼と妻とは、幼い子供をかかえて途方にくれた。どこにも助けを求め得られる人が見当らなかった。細君と恋に落ちて同棲する時、彼の方も細君の方も親戚中の反対に出逢って、今では義絶の形になっていた。また友人連中のうちでも、少し余裕のありそうな方面は皆不義理をしつくしてしまってるし、その他は彼と同様に貧乏な者か金に不自由な独身者ばかりだった。で彼は思案に余って二日間もぼんやりしてた揚句、ふと吉岡のことを思いついた。吉岡とは年令も少し遠いし境遇も非常に違うし、単に画家と美術愛好家というだけの交りで、金銭のことを持ち出せるほどの間柄ではなかったが、ただ一つ心持の上の妙な交渉を持っていた。彼が周囲の反対と
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