好意
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)側《はた》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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河野が八百円の金を無理算段して、吉岡の所へ返しに来たのは、何も、吉岡の死期が迫ってると信じて、今のうちに返済しておかなければ………とそういうつもりではないらしかった。河野の細君にはそういう気持が多少働いてたかも知れないが、河野自身には少しもそんなことはなかったらしい。後で河野は私へ向って云った。
「八百円の金を拵えるのに貧乏な僕は、ひどい無理算段をしたには違いない。然し僕は、吉岡がもう長くは生きないだろうなどと思って、今のうちに返済しておかなければ、永久に吉岡の好意から解き放される機会がないと、そんなつもりでは少しもなかったのだ。僕はただ、吉岡を安心させる………いや安心させるのとも違う……何と云ったらいいかなあ……兎に角、吉岡が僕達の生活を救ってくれた。そこで僕達はどうにか生きてきた、そして今では自分の腕で暮してゆけるようになってる、というその感謝の意を、あの八百円で病床の吉岡に知らしたかったのだ。僕のやり方もまずかったには違いないけれど、あんな風に誤解されようとは、夢にも思わなかったことだ。」
河野としてはそれが本当の所だろう。然し吉岡の方にだって、単に誤解というだけでは片付けられない、もっと複雑な気持が働いてたに違いない。
が、こんな風に説明したり註釈したのではきりがない。じかに事件だけを物語ることとしよう。裏面にいろんな事情や感情が絡んでいたかも知れないし、話の正鵠を失することがあるかも知れないが、私としてはただ、眼に触れ耳に触れたことだけを、そのまま物語るの外はない。考えてみれば、変な話ではあるが……。
一
河野が八百円はいっている洋封筒を懐にして訪れた時、吉岡はわりに元気な平静な気分でいた。今日は朝から血痰が一度も出ないし、熱もないようだから、よかったらゆっくり話していってくれ給え、などと云って、人なつっこい笑顔で河野を迎えた。河野は意外な気がした。その離れの十畳の病室へ通される前に、彼は敏子さんから注意されたのだった。
「余りよくないようでございますの。側《はた》からは元気らしく見えますけれど、実は面白くない容態にさしかかっているので、人に会うことも出来るだけ避けたがよいと、そう申渡されていますのよ。でもあなたには始終会いたがっていましたし、少しくらい宜しいかと思いますわ。」
で河野は、ただ用件だけを済すつもりで、十五分ばかりと約束して、病室へ通ってみると、吉岡は思ったより晴々した顔付をしていた。そして、共通の友人達の消息や、河野の近頃の製作のことや、展覧会の噂などを、新たな興味で尋ねかけて、次には枕頭のゴヤの画集を引寄せながら、偉い画家だとは思うけれどどこかデッサンの狂いがあるらしいと、そんなことまで指摘し初めた。河野はそれに逆らわないように調子を合せて、それから、なるべく頭を使わないで静にしていた方がよい、呑気が病気には第一の薬だ、というようなことをそれとなく説いた。すると吉岡は苦笑を洩して、こんなことを云い出した。
「君もやはり皆と同じようなことを考えてるんだね。つまり皆にかぶれてしまうんだね。僕の所へ来る前に、誰かから何か云われたろう。僕にはちゃんと分ってるよ。……こうして寝ていると、僕は実際変な気持になることがある。自分自身と周囲とがうまく調子が合わない、そういった気持なんだ。例えば、医者の顔色や看護婦の眼付や敏子の素振りなどから、僕は自分の容態がどういう風かということを知らせられる。皆が口先でどんなことを云おうと、様子を一目見れば、腹の中ではどんなことを考えてるかがすぐに分る。そして可笑しいのは、その皆の考えや様子がきっかり歩調を合して、云わば列を正してる兵隊の歩調のように、少しの狂いも乱れも示さない。皆が同じ調子で、僕の容態を多少よいと思ったり悪いと思ったりする。まあ大体は医者の言葉が重きをなすのだろうが、必ずしもそうばかりではなく、誰が思い初めるともなく、誰が云い出すともなく、周囲の者達が一様に、今日は少しいいなとか、今日は少し悪いなとか、そういった調子になるんだ。それを見てると、僕は自分の容態の晴雨計をでも見るような気がしてくる。所が不思議なのは、同じように高低するその沢山の晴雨計と僕自身の気分とが、どうも調和の取れないことが多い。僕が今日は気分がいいと感じてる時でも、皆は一様に僕の容態が悪いと思ってることがある。何だかこう、中心の歯車と周囲の多くの歯車とが、うまく喰い合わないといった感じだ
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