改革、信念上の種々の確立など、それが個人的なものと民族的なものと国家的なものとを問わずいやしくも文学の中に於ては、生活という大地に即して考案される。そして更に文学の中に於ては、生活建設と人間性探求とは、生活とか人間とかいう概念が変化しない限りは一体の両面に外ならない。
 然るに、建設の文学に於て、一応、「わたくし」的創作技法が排斥されるのは、何故であろうか。結論に飛べば、「わたくし」的技法などよりも、直接に思想に頼れと云われる。思想で事象を選択し整理して、直截に叙述せよと云われる。更に卒直に、「わたくし」の代りに思想を持って来いというのである。――茲に、何か忘れられてるものがある。思想が創作上にそういう風に使用され得るものでないのは、云うまでもないことであるが、問題は創作技法にあるのでなくて、更に先方にある。
 ドストエーフスキー的世界に於て、ああいう性質の事柄を持ちこたえるのが容易でないのは、創作技法の上ばかりでなく、更に多く、当の作者の体力のことになる。精神と肉体と両方をこめた体力である。
 作者と作品との関係は、常識的に考えられる建築物との関係とは異る。建築家は、大地の上に先ず基
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