度は……。」
「ちゃんとしてあるよ、家に……。さあ、父さん、行くんだよ。」
「うむ、いよいよ駄目だったかな。」
 まだ若者の顔を見つめたまま、彼の顔は一瞬間、筋力の力が失せたかのようにとほうもなくたるんで、それからこんどは急に硬ばった。
「じゃあ、行くかな。」
 考えこんだ調子で、でもすぐに立上って、皆に挨拶もせず勘定も払わず、若者に手を引かれて出て行ってしまった。
 そのことが、一同を驚かした。誰が死んだか、どんな関係の者が死んだか、そんなのはこの飲み屋にいる一同にとってどうでもよいことだったが、彼にあんな律儀そうな息子が――彼を「父さん」と呼ぶ立派な息子が――あろうとは、誰にも思いがけなかったのだ。
 日が暮れて、外が暗く家の中が明るくなり、更にその明暗の度が強く感ぜらるる頃になってから、どこからともなく集ってくる連中だ。始終一緒になる常連の間でも、誰がどこに住んでるか、どんな生活をしているか、ばかりでなく、お互の名前さえ、よくは分らず、濛とした酒気と煙草の煙のなかで、ただお互の顔付だけが符牒だ。その、彼の符牒に、あの若者の息子はどうもつかなかった。
 ――本当の息子だろうか?
 
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