そんなら、君の話は分らんよ。」
「世間が分らないんでしょう。」
「そうも云えるが……。」
矢杉は口を噤んだ。何やら腑におちるようなおちないようなものの中から、李の一面にはっきり触れた気がしたのだった。李の在学理由、故意に引延された在学の理由は、要するに、彼一己の道徳と対世間的策略との二つに依るものらしい。前者には、一種の自己偽瞞の気味があるが、その底に何か他のものが潜んでいるらしい。後者には、半島出身者の苦渋が見えるが、然し一般に云っても恐らく当ることであろう。そしてこの両者を合せ考える時、李の人柄のうちに或る恐ろしいものが浮んでくるようであった。然し矢杉にはそれがまだはっきり掴めなかった。ただ李のてきぱきした率直な言葉のなかに、彼の思想の力というようなものを感じた。そして、彼の顔から眼を外らして、沈思の気持に誘われるのだった。
お茶の水駅東口に来ると、矢杉は電車に乗るために別れようとした。その二三歩あとから、李に呼びとめられた。
「先生、吉村さんへ御紹介して下さいませんか。」
そのことを矢杉はもう忘れていた。紹介するなら手紙でも書いてやろうかと思ったが、それを止めて、聖橋の欄干
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