早くから家を出かけた。神保町の四つ角で電車を降りると、交番の時計はまだ七時に三十分余りも前だった。その間古本屋を覗きながら、何度も時計を見に戻って来た。巡査の顔付や眼付は眼中になかった。愈々七時になると、一二一二という足取りで出かけた。そしてカフェーの扉の少し手前でぴったり立止った。擦硝子の電球を見るような硝子扉だった。電車や自動車や自転車や人間が、素晴らしく沢山通っていた。真暗な空と冷い風との中で、何もかもが、明るい街路までが、幻影のように浮出して見えた。
 お清が出て来てくれなかったら、私はいつまでもつっ立っていたかも知れない。ふと気がつくと、カフェーの扉から半身を出して彼女が、混血児そっくりの顔付で手招きしていた。それを見た瞬間、今迄の熱情はすっかり消え失せてしまって、私は石のように冷くなった。そして真直に歩み寄っていった。
「何をぼんやり立ってたの。」
 私は返辞をしなかった。彼女の後について中にはいった。ぱっと光の中に飛び込んだような気持だった。彼女に連れられて隅っこの卓子に坐るまで殆んど無意識だった。
 円い腰掛、真白な冷い卓子、黒ずんだ植木、それらを意識しだして我に返ると
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