がら立去っていった。
私は家に飛んで帰った。
暫く考えた上で、私は父に尋ねてみた。
「お父ちゃんは、寺田さんがどこへ行ったか、本当に知らないのかい。」
「知らねえよ。何だい。」
で私は、途中で逢った男のことを話した。
父はひどく淋しそうな顔付をして、考えこんでしまった。
「知らないと云うのが一番だよ。」と母は云った。「実際何にも知らないんだからね。」
父も母も五十銭玉を私から取上げようとはしなかった。不思議にその時は、金のことなんかどうでもいいというような調子だった。私はすっかり安心した。五十銭玉を大事にしまいこみながら、もっとあんな男が出て来ないかなあなどと考えた。
これは後年寺田さんから直接聞いた話だが、寺田さんは砲兵工廠にはいる前、九州の或る硝子工場で可なり過激な労働運動を起しかけたことがあったそうである。そのことが警察の方へ知れたので、こんどの事件もあって、先に逃げてしまったのだとか。然し他にもまだ何かあったらしい。
私達はそんなことを少しも知らなかった。殊に私はまだ小さな子供だった。
幸なことには、警察の方ではもうそれ以上私達に目をつけないで、ただそれとなく網
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